「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

幸せになる技術の話(β版)

怖がってばかりいる人は幸せになれない。

傷つくのが怖くて他人に期待できない。だけどそれを認めようとしない。
そうすると傷つくのが怖いという事実にフタをして、別の理由を探す。
そうやってだんだんと、じぶんの本当の気持ちがわからなくなって行く。

怖がるのは不安だから。

なぜ?どうして?
なんでこうなっちゃうの?
うまくいくの?失敗したらどうなるの?信用していいの?

こういう時、人は不安になる。

つまり「わからない時」だ。

不安になると落ち着かない。
落ち着かないからイライラする。
「イライラの原因はこの不安だ!あいつのせいだ!あいつ気に食わない!」

残念、そうではない。
原因はじぶんの中にある。
わからないことを、わからないままにしていることが、その原因だ。

わからないままにしてると落ち着かないから答えを出すんだけど、じぶん以外が悪い(じぶん以外に原因がある)と思っているから誰か(何か)のせいにして考えるのをやめてしまう。

本当にそうなの?
これであってるの?

原因をじぶん以外に探す人は、繰り返し自問する冷静さを持たない。だから本当の原因がわからない。

本当の原因がわからない。だからまた「わからない時」がやってきて同じことでイライラする。
本当の原因はじぶんだ。じぶんを知らないことだ。

じぶんを知らない人は、その分だけ幸せから遠のく。
今幸せだと思えても、いずれ破綻する時が来る。
なぜなら、じぶんで幸せを見つけ出せないから。
じぶんの幸せを知らないんだから当然そうなる。

愚か者が面白いのは、愚か者のくせに「じぶんには見る目がある」と信じているところ。
その思い上がりがさらにじぶんを苦しめることになる。
見る目があるというのは、良し悪しの区別がつくということで、区別がつくなら良いことだけを集めればいい。
しかしできない。
本物を見分ける目がないのだから当たり前だ。

本物を見分ける目を持っていないのに、あの人は嫌い、あの人は間違っている、あの人は...とレッテルを貼り責任転嫁に懸命になる。彼らの「良いこと」の基準は、じぶんが気持ちいいということだけだ。そういう人は、猛毒でも気持ちよければ良いものと判断する。
毒か薬かわからないなら、わかったふりなどしなければいいのに、レッテルを貼るのに懸命になって本当はどうなのかを考えようとしない。そして、じぶんで貼ったレッテルを信じて生きていく。

考えるとは、判断基準に従って判断しそれを積み重ねることだ。
判断基準を作り検証することでもある。
ゴールを決め、そのゴールに向かうのに適切か否かで判断すればよい。
「今だけ気持ちよければそれでいい」というゴールなら、今の気持ちだけで判断できる。
うわあ、それがゴールならすぐにゴールに辿り着けるね。やったじゃん。
...ああバカバカしい。

もちろん判断力がつくわけがない。見る目も育つわけがない。
言い換えれば、今ここでじぶんを幸せにできないヤツは全員、例外なくモノゴトの良し悪しを判断する能力に欠けているということだ。

でも愚か者はそうは考えない。
「苦しい、切ない、哀しい。」
愚か者はいつまでもそういう思いで居ることを選ぶ。
思うことを繰り返すだけでそこから脱出するための決心をしない。
頑として解決するための行動をしない。
じぶんが望んでいるんだから当然そのまま変わらない。
「苦しいのは嫌!」といいながら、じぶんの意志でそこに居続ける。

断言しよう。
いつまでも苦しみから解放されないのは、じぶんが苦しみの中にいることを望み、苦しみの中にいることを選択しているからだ。じぶんが幸せになることを許していないからだ。

不幸の中に居たい人を幸せにすることは誰にもできない。

他人に相談してみたり、
共感を求めて他人に話しかけてみたり、
救われたい楽になりたいというふりをするけど、
努力は一切しない。

そういう人には共通項が多い。

  • 他人が信用できない
  • 自信が持てない
  • 嫌いな人が多い
  • 親や友人を許せない

そして悪いのはあいつだとレッテルを貼って貶める。

全部、じぶんでじぶんを苦しめるのに有効な方法だ。
それは不幸になる考え方、不幸になるためのやり方だよと教えても聞く耳をもたない。

聞かないばかりか、

「言い方が気に入らない」
「そんなことを言われて気分悪い」
「否定された」
「批判された」
「偉そうだ」
「何様のつもり」

と言い出す始末。

幸せになりたくてもがいているなら、一時の感情に惑わされている場合じゃないはずだ。嫌だ、頭にくる、ショックだ、裏切られた...どんな感想を持ってくれてもいいけれど、それを感じているのは「今この瞬間、自力で幸せになれもしない愚か者」なんだぜ? そういう愚か者(じぶん)の感情を優先し、考えることを放棄するならしたければいいさ。
正当化ばかりしてじぶんの愚かさから目を背けていれば、いつまでも自分に騙され続けるだろうよ。幸せに至る道を「痛いよ、危ないよ」と遠ざけ、奈落に至る道を「こっちが楽だよ、嫌なことはしなくていいよ」と囁くその場しのぎのじぶんを大事にしていたまえ。

愚か者(じぶん)の反射的な感覚を信じて、好いか悪いかわからないのに、一時の感情で判断する。おれの意見が絶対に正しいなんて言わない。じぶんで考えて決めればいいのさ。だけどそもそも聞く耳を持とうとしない。考える気はさらさらない。それってそのやり方を続けたいってことだよな。だったらしょうがない。どうぞご勝手に。

だけど幸せになりたいと思う人はよーく考えよう。
じぶんは常に愚か者の可能性がある。
誰だろうと、いつだろうとだ。それはおれだって同じだ。
じぶんの判断に絶対の自信を持つのは間違いの元だ。

「今の判断基準に照らせば」という条件は常につきまとう。常に仮定。いつまでも仮定。だから間違うことはいつだってあり得る。
だけどそもそもその判断基準が「その時の感情」だったら、仮定もクソもないよ。より良くすることなんてできるわけがない。

感情に踊らされて生きたければ勝手にすればいいんだけど、困ったことにそういう人は悩んでるふりや苦しんでるふりが大変うまい。そうやって他人の同情を誘って巻き込んでいく。とても迷惑な輩だ。

そういう迷惑な輩が求めるのは、気持ちのいい言葉。

大丈夫だよ
こうしてみたら?
きっとなんとかなるよ
君は悪くない
かわいそう
力になるよ

結果、なんにもならない。時間の無駄。
だって本人は解決したくないんだもの。

努力しなくても問題は解決しちゃて、努力しなくても好きな人に好かれて両思いになれて、努力しなくても夢に向かって楽しく進めて、努力しなくても優しい言葉をかけてくれる友だちに恵まれて...
ああ!幸運が降って来ないかなあ!!


あほか。
どこからどう見ても、非の打ち所のない愚か者だ。

今ここで、痛みをこらえて、進むべき正しい方向に一歩を踏み出す。
それをしないで現状を変えることなどできない。
幸せが、勝手にやって来ることは無い。
※本当はやってくるけど気づかないで手放しちゃう

なぜなら幸せとは、「幸せになる技術」によって得られるものだからだ。
技術の習得には努力が必要だ。
幸せになる技術を身に付ければ必ず幸せになれる。必ずだ。
逆に、技術が身に付いていなければ必ず幸せになれない。必ずだ。
だから幸せになる技術を身に付ける努力をしたくないってことは、幸せになりたくないってことだ。

幸せになる技術が勝手に身に付いたりしないかって?
無理です。そういう人は幸せにはなれません。残念でした。
残念じゃないか。不幸でいたいという願いは叶ってるもんな。

だけど何が何でも不幸でいたくない人は、幸せになる技術を身に付ければいいよ。
それが一番の早道。