「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

大切にするということ

本当に大切にしたいのであれば、大切にしたいものに順位を付けることだ。
大切にしたいと本当に思うのであれば意地でも順位を付けろ。

順位を付けず「ぜんぶ大切!」というのは確かに聞こえはいい。しかし実際には非常にテキトーであいまいで不誠実な態度だ。保留していると思ったら大間違い。実態は保留じゃなくて、そもそも重要と思ってないから「ぜんぶ大切!」なんて言えてしまうのだ。

「どうしても判断しなければいけない重要な事態になった時に判断すればいい」とでも思っているのだろう。しかし、いざ重要な事態になれば速やかに判断しなければならない。でもできない。即断できるものなら、そもそもやってるんだから。判断基準が明確で、決断力があるなら、とっくに判断・決断しているんだから。

もっと簡単に言おう。
「考えてない」んだ。

考えてもいないのに大切にしたいなんて嘘っぱちもいいとこだ。
納得できる判断には明確な理由がある。
だから判断ができるのであって、あいまいだったら何を選べばいいのかわかるはずがない。

次のケースを考えてみよう。

男女2人の子供を持っているとします。
あなたはどちらも同じように愛しています。順位を付けることはとても難しいです。

さて、あなたは、あなたの子供たちと一緒にいる時に大地震に遭遇しました。子供たちは今にも地割れに飲み込まれそうです。急いで助けたいですが、ひとりを助けている間にもうひとりは地割れに飲み込まれるかも知れません。確実に助けられるのはひとりだけです。

あなたはどうしますか?

  1. 息子を先に助ける。
  2. 娘を先に助ける。
  3. 年長の子を先に助ける。
  4. 年少の子を先に助ける。
  5. 自分になついている方を先に助ける。
  6. 自分になついていない方を先に助ける。
  7. 健康な方を先に助ける。
  8. 病弱な方を先に助ける。


「こんなこと考えても意味が無い」

なんてことはいくらでも言えるけど、ではもしも現実にこの状況になってしまった時どうするのだろうか? 傍観するのだろうか? 迅速に行動しなければ助けられるものも助けられなくなってしまうその時に、熟慮なんかしていられないだろう。体が自動的に反応するくらい考えておくから、自動的に反応するのだと思う。

判断や行動の基準がはっきりしないまま放置していて、いざその時に迅速に行動できないで、大切にしたという結果になるのだろうか?
私はそうは思わない。不測の事態が起きた時、優先順位に迷うようでは大切にしているとは言えないと思う。

どちらも選びたい。
どちらかを切り捨てるなんてできない。
そりゃあそうだ。
でも、選ばなければ全部失うなら、せめてどちらかを救いたいじゃないか。

だから考える。考えないで決めることなんかできない。考えても結論は出せないかも知れないけど、考えなければ絶対に結論は出ないんだ。そして考えたことによって、自分が何を基準にすればいいのか、何を基準にしなければいけないのか、それが見えてくる。

大切にするというのは、要るものを決めることではなく、要らないものを決めることだ。基準だって同じこと。要らない基準を片っ端から外していけば、自分にとって本当に必要な基準だけが残る。本当に必要なものだけになった時、ひとつ迷いが減る。

 

追記

自分にとって大切な基準でも、他人にとっては困る基準になることがある。
というか突き詰めれば誰かと利害が衝突するのが常だ。

人間は誰しも自分を優先させて生きるものだけど、建前的に「あなたのため」って言うことがある。でもそれってどこまで本当なんだろう。

私は、自分の幸せを追求すれば、どこかで必ず業を背負うものだと思っている。だって全部は選べないんだもの。いつか誰かの利害と衝突するんだもの。だからせめて、幸せを求める姿勢で妥協したくない。

「自分の幸せの追求が、誰かの迷惑になるという業」

これを自覚するからこそ、他人の業を許すことができるのだと思う。