「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

なぜ人を殺してはいけないかの答え

なぜ人を殺してはいけないか - わんこ先生のざれごと

これを読まれた方の中に、この文章が結論を明確にしていないと思っている人がいる気がしたので明確に書いておきます。

「なぜ人を殺してはいけないか」の普遍的に通用しそうな答えは、

  1. お互いの生命を脅かさないことがコミュニティ参加の暗黙の条件であり
  2. 暗黙の条件を明文化した成文法や条約に批准した国に住んでいるからであり
  3. コミュニティの中で自己の権利を制限されることを望まない前提であるならば
  4. 人を殺すとじぶんと周囲が不幸になります。だから殺してはいけない。

...です。

でも、殺すことがじぶんにとって都合がよければ「いけない」という禁止は説得力を持たない。だいたい、法が保証する権利を守れとは書いてあるし罰則もあるけど、私の知る限り殺してはいけないとは書いてない。

だから私は結論として
「じぶんの幸せをどう考えるか」に集約される
と書いた。

「なぜ殺してはいけないか」という問いに対する普遍的に通用しそうな説明は、「約束事があるから」以上の答えがない。しかし社会全体では約束事があるからだとして、個人はどうなのか。個人はじぶんの生き方をじぶんで定めることができる。なので私は、個々人がじぶんの幸せを真剣に考えることで「殺さないことを選ぶ」という明確なプロセスを持つことが、社会を明瞭に構成するために必要だと考えている。言ってみればこれもじぶんとの約束だけどね。

ともあれ、この問いに明確な答えを示せない人たちは、「殺さないことをじぶんで選ぶという明確なプロセス」を経験せずに生きている人たちだ。「人間はこうでなければならない」という教条主義的な人はみんな同じことを言う。理由が出てこないのは考えたことがないからだよ。社会の常識だとか決まり事だとかなんでもいいけどそういう「他者からのルールを無批判に受け入れて疑問を抱かず生き」ていれば答えることができなくて当然だ。だから「答えられない問いには答えなくていい」とか「問いが間違っている」とかの考えることを途中で放棄しちゃった意見が出てくる。それはじぶんが思考停止していることの言いわけに過ぎない。だって考えれば常識に隠れた何かが見えてくるもの。

様々なことを考え、自らの意思で選択した人にとって、この問いは自明だ。つまり、

「私にとっては、私が殺さないことを選択したから殺してはいけないのだ。あなたにとっての理由は、あなたの責任であなたが決めればいい。」