「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

「私」だけの善、「私」だけの悪

主観的(個人的)な善悪の定義を書いてみよう。

(主観的な)善とは、じぶんが快く納得できること。
(主観的な)悪とは、じぶんが不快で納得しかねること。

対照的になるように客観的(世間的)な善悪の定義も書いておこう。

(客観的な)善とは、「みんな」が快く納得できること。
(客観的な)悪とは、「みんな」が不快で納得しかねること。

厳密に言えば法や契約で定められたことを破ることなんかも入るけど、それも含めて「誰が」納得するのかってことが重要なんじゃないかと思うわけだ。

じぶんはさておき、「みんな」とは誰なのか。どこにいるのか。
人類の総意はどこかにあるのか。

誰もが喜ぶ、誰もが憎む、誰もが悲しむ。言葉の上でそれは表現できるけど、そんなものはどこにもないんじゃないかな。それは「誰か」が思う「みんな」であって、その「誰か」の中にしか無いものだ。

客観的な善も客観的な悪も、想像の中にしか無い。
すべて「誰か」の主観でしかない。
「誰か」の主観は、「私」の主観ではない。

「私」が「みんな」を想像するなら、それは「私の中のみんな」だ。
それもまた「私」の主観でしかない。

「私の中のみんな」という主観を押し付けて納得しろと迫るのが「みんなの善」であり「みんなの悪」だ。善も悪も、全員が同じように思うものなんて存在しない。極論すれば、そんなものは善でも悪でもなく、押し付けてくるヤツの妄想だ。

だからおれの、『おれだけの善悪の定義』を書く。

善は、勇気と、直視と、考えること、覚悟から生まれる。
善は「私」に幸せをもたらす。

悪は、弱さと、目をそむけることと、考えないこと、決めないことから生まれる。
悪は「私」の幸せを壊す。

これは「私」の中だけのものであり、他人には関係ないことだ。
「私」の中の善も悪も、「私」に向けられるものであって、他人に向けるものではない。

繰り返そう。
主観的な善とは、じぶんが快く納得できること。
主観的な悪とは、じぶんが不快で納得しかねること。

善も悪もじぶんだけのものであり、他人に押し付けるものではない。
「おれはこう思う」それでいいじゃん。
「お前もそう思うだろう?」というのは、いらないプロセス。