「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

上下関係は対等ではない?

〈上下の関係〉ならば〈対等に話すことはできない〉 さて、この命題は正しいだろうか? ■仮定:真である対等の概念は上下の関係性を否定している。対等とは上下関係の反意語であるから、上下関係が確定している中で対等に話すことは不可能だ。よってこの命題…

向き合いはじめの一歩

ある日、ある場所での哲学対話。宙空に浮かべられた問いを、みんながぼんやりと眺める。どうしてそれが問われたのか、なにを問うているのかを考えることなく、まるでアンケートの設問に答えるように、次々に「自分はこう思う」という意見が述べられる。論理…

対話は信憑に変化をもたらす

デキゴトは常に「ある視点からの事実の側面のひとつ」に過ぎない。誰であろうと、全視点(神の視点)で捉えることはできない。だから、同時にひとつの視点しか持てない人間には「事実をそのまま見る」ことはそもそもできない。そしてその「ある視点」は物語…

哲学対話の場はちっとも簡単ではない

たいていの哲学カフェでは、場の目的やルールがあり、ルールがあるところではルールの説明をする。でもそれに時間をかけるところは少ない。お決まりだから?これから対話を始めるのだ。それは好きなことを好きなように言い合うことではなく、あらたまって他…

哲学対話のルールを鵜呑みにしないで考えること

東京大学教授の梶谷真司さんの本を読んで哲学対話をはじめた人は多いみたいだ。だけど、この本をマニュアルとかバイブルのように思ってよく考えずに模倣したり、東大教授の本に書いてあるからこれが正しいんだと決めつけるのは違うんじゃないか…という話を書…

ある日の回想③

野球が好きな人がいて、「自分は本気で真面目に野球をやりたいと考えているんだ!」と言いながら、やっていることが ・僕の考えたすごい魔球(投げられない)・打ったら三塁に走ってもいい理由を考える・特定の場合だけ4アウトまで認めるべき理由を考える・…

ある日の回想②

人間は真理と呼ばれるものに近づけるとは思う。一足飛びに近づけるとは思わないけど、近づくことはできるはずだ。しかしそれができるのは妥当な努力を積み重ねた者だけであって、追い求めてる風の気持ちやポーズだけでは一切近づけない。 哲学が好きだとか、…

ある日の回想①

わざわざ落胆する必要もないことで落胆してしまった。 哲学カフェをやるつもりなんだろうと思って見ていたら、ルールはおろか進行方向も決まっておらず、まったく関係ない話題が錯綜するのは大歓迎とか言いながら、「ここでは対話をして欲しい」と言っていた…

答える前に「いろいろ」考えてみた?

「重要なのはAかBか」 たとえばこのような問いがあるとして、Aの方が重要だとか、いやいやBの方が重要だとか、はたまたAもBも重要だとか答えたとすれば、その回答者はろくに考えていない。自分の中にある「それっぽい答え」を探してきて答えているだけだ。何…

「私」を考える

私とは、自分と外界を分ける「境界線の内側」を指す言葉だが、自分と外界とは何によって分けられているのだろうか。皮膚によって? そうだとすれば体内に埋め込まれたペースメーカーは、私の一部と認識されるのか。有機的な結合によって? そうだとすれば承…

『愛するということ』について(3) 責任を持つ

エーリッヒ・フロムの『愛するということ』の中にある〈愛の能動的4つの性質〉について、次は責任をみていこう。愛するということ 新訳版作者:エーリッヒ・フロム紀伊國屋書店Amazonくどいようだけど、〈愛の能動的4つの性質〉は原書で次のようになっている…

『愛するということ』について(2) 配慮する

さて、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』について、いよいよ書きたかった本題に入る。フロムのいう〈愛の能動的4つの性質〉、配慮・責任・尊敬・理解について個別にみていこう。愛するということ 新訳版作者: エーリッヒ・フロム,Erich Fromm,鈴木晶…

『愛するということ』について(1)

エーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本がある。愛に関することで必要なことはこの本で言い尽くされてしまっている、といっても言い過ぎではないと思えるくらいに完成度が高い本だ。特に「愛は技術だ」と喝破しているところはとても素晴らしい。…

会う、逢う、遭う

人や出来事と対面する意味での「あう」にはいくつかの漢字がある 。それぞれ以下のような違いがあるように思う。 会…集まる。会う意思が有る。 逢…運命的な要素。逢う意思は問わない。 遭…偶然的な要素。遭う意思は無い。 逢うは、逢瀬のように意思がある場…

信用シール

信用をシールのようなものと考えてみる。 自分が信用できると思ったものに、「自分マークの信用シール」を貼るわけだ。想像上のシールなので何にでも貼れる。人にも会社にもお金にも、言葉にだって流行にだって貼れる。 信用シールは無制限の信用じゃなくて…

新しい「社会人の定義」

※推敲中だけど公開する。趣旨を大きく変えることはしないけど、細部については追記・修正するかも。社会の様々な問題を解決したいのであれば、その構成員である「社会人」の定義を見直すことから初めないと改善しない。構成する部品に原因があるのに、原因を…

「寄り添うこと」と「悲しみ」を見ること

友達をどういう定義で考えるかは好きにすればいいと思うので、私も私の思いたいようにしている。そういう意味で、私には「私の友達」についての明確な基準がある。その定義に当てはまらない人は、どれだけ頻繁に会っていても仲良くても私は友達と呼ばない。…

生きるための哲学相談

「その人が無自覚に前提していることを見抜く」のは哲学の得意とするところで、突拍子もない理屈だろうと矛盾だらけの理屈だろうと、それらを読み解くための質問はできる。しかしこれは、哲学の知識に依るものではなく、実践経験に依るところが大きい。哲学…

人としての成熟

大切にするとはどういうことか。大事に思うとか愛することとかってのは、具体的じゃないので説明にはなっていない。では具体的にどういうことなのか。それを考えるためには、まず「大切にしたいものは何か」を考える必要がある。誰かのことを大切に思ってる…

私の考える対話の場と参加姿勢

※以前に別のところに書いたものの転載です。えーと、なんかモヤモヤするので思うところを書きます。始めに明確にしておきますが、これは私がそう思っているというだけで、唯一絶対の正解だとか、一番素晴らしい考え方だとか、だから同じように考えろだとか、…

「自分はすべてを知ることはできない」という生き方

【自分はすべてを知ることはできない】という自覚は、案外難しいものだ。哲学の効能は「考える力を養えること」と言われているようだけど、実は「答えは安易に出せるものではないと知ること」の方が大きい。考える力なんて程度の差はあれだいたいの人は持っ…

哲学も対話も苦い

ずっと疑問に思っていた。なぜ、哲学対話のテーマで「対話ってなに?」というテーマをあまり見かけないのか。 ※まったく無いわけじゃなくてたまにはある。「対話バンザイ、討論は嫌い!」みたいのも含めればもっとあるけど…。対話そのものをテーマにしないの…

人が暴力をふるうのはどんなとき?

■加害者・被害者が共に暴力だと知っている場合 自分の中の満たされない穴の埋め方に「困った時」。困らなければ暴力にはならない。暴力が常態化した場合は、満たされなさを感じると反射的に暴力に結びつく。困り度合いが「手を伸ばさなければ醤油が取れない…

行為に対する誠実さと自己表現の真剣さ

ある人のエントリを見た。ある絵本作家が自己紹介をする際に、絵本作家ではなく「絵描き」と名乗った話から、哲学者や教師が絵描きのように名乗るとすればなんと名乗ればいいのだろうとか書いていた。それで思ったんだけど、そもそも「私は哲学者です」とい…

日常的に哲学を実践しているなら

誰に対してかは明言しないけど、レベル低い。また、これも誰に対してかは明言しないけど、素晴らしい、しびれる、憧れる。

闇の中の仕様書

世界は「仕様書のないシステム」であり、多くの学問は「システム攻略マニュアルの作成」を目指している。しかし哲学が目指しているのはマニュアル作成ではなく、推論と検証を重ねながら実装を見抜いて作る「妥当な仕様書の作成」だ。この点は科学や数学も同…

尊ぶ、敬う、重んじる

・尊ぶ…その存在を価値あるものと捉えること(社会的存在価値)・敬う…(人および擬人化されたものに対して)内心の価値に関わらず敬意を示すこと(個人的態度)・重んじる…重要視すること、大切にすること(軽んじることができないとすること、個人的重視)…

礼儀とはなにか

礼儀は「形式的に実行可能な尊重の表明」。形式を無視すると失礼になるのは、尊重しないことの表明だから。形式を無視しても失礼にならない場合があるのは、形式に沿わない形で尊重を表せている時。

哲学ってなんだろうね

論理的であることは、哲学の一要素に過ぎない。 論理的に考え、論理的に話せれば、哲学ができているとは言えない。 もし論理的であればすなわち哲学であるとするなら、論理的に構成された契約書も哲学になる。しかしそんなわけはない。また、知識も哲学の一…

哲学と対話と哲学対話

「哲学とは何か」というのは広大で多様に見えてしまい、こりゃ完全に言い表すのはしばらく無理だなとは思っていたけど、同じように対話も完全に言い表すことができない。*1一年や二年考え続けたところでわかるようなもんじゃないなってことが実感できた程度…