「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

『愛するということ』について(1)

エーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本がある。

愛に関することで必要なことはこの本で言い尽くされてしまっている、といっても言い過ぎではないと思えるくらいに完成度が高い本だ。特に「愛は技術だ」と喝破しているところはとても素晴らしい。

もし、愛を技術ではなく、本能だとか、まともな人間なら誰でもできるものだとしたなら、愛する方法がよくわからない人は自分を欠陥人間だと責めるしかなくなってしまう。

愛についての理解を深め、自分を磨くことで身につけられる技術であるからこそ、救われる道が示せる。また、愛について間違った理解をし、自分を磨くこともしないのであれば、正しい形で実践することはできないことになり、気持ちはあってもうまくいかないことの理由が説明できることになる。

理由が説明できること。これもまた救われる道だ。フロムは愛を説明できるものにすることによって、うまく愛せずに苦しむ人に救いの道を示したと言えるだろう。

それほど完成度が高く素晴らしい本であっても、細部を考え直してみるとまだ掘り下げらえるところがあると、最近になって思えるようになってきた。どんなに完璧に思えても別の角度から光を当てることはできるし、見えていなかったことに気づくこともあるってことだ。

この本でフロムは、愛を「何よりも与えること」といい、その能動的性質として、

  • 配慮(care)
  • 責任(responsibility)
  • 尊敬(respect)
  • 理解(knowledge)

の4つをあげている。しかし、ここの説明は「誤解が可能」な表現になっているように思う。

言葉の意味の受け取り方には個人差がある。言葉に引きずられてしまうといったらいいのかわからないが、自分なりの意味で解釈してしまうと、フロムが言いたいこととは違う意味に捉えてしまうことは十分にありえそうだ。

そこで、ひとつひとつを〈できるだけ誤解しにくい形〉で解説してみようと思う。

ただし、もちろんわんこ先生流だ。それ以外は私にはできないのだから仕方がない。私は学者ではないし、専門の方々から見れば稚拙に映るだろうし、異論・反論は当然出るだろう。だから「これがフロムの言っていることだ!」という意味で書くわけではない。フロムの真意がどうであれ、この本を読んで私が書きたくなったことを書くだけだから、ブログタイトルで宣言しているように「ざれごと」として読んでいただきたい。

それと、参照する本は紀伊國屋書店刊の『愛するということ新訳版(鈴木晶訳)』だ。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版



さて、しかし、4つの能動的性質について話す前に、前提となるとても重要な部分を抜き出しておこう。それは次のふたつだ。

  • 「愛するとは与えること」が指し示す「与えるもの」
  • 愛することを実践できる条件

では、順に見ていこう。


「愛するとは与えること」が指し示す「与えるもの」

しかし、与えるという行為のもっとも重要な部分は、物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある。では、ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのだろうか。自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。
p.45~46 (下線筆者)

まずこの引用部分全体で言わんとしていることは以下のことだ。

  • 物質を与えることを指してはいない
  • 「ひときわ人間的な領域」を指している

その「ひときわ人間的な領域」は、つまり上記の引用の下線部分だ。自分自身を与える。自分の生命を与える。フロムも誤解を防ぐために「生命を犠牲にするという意味ではない」としているが、そのあとに続く文章を読んでも人によってはわかりにくいのではないかと思う。

これを私の言葉に変換すると「自分の生き方を示す」ということになる。

自我を持っている人であれば、自覚していようがいまいが自分なりの生き方を持っている。アドラー心理学風に表現すればライフスタイルだ。そのライフスタイルには自分の価値観・世界観が表れている。私は特別にアドラーを信奉しているわけではないけど、生き方と書くよりもライフスタイルと書いた方が変な抵抗感なく読めるように思うので、ここではライフスタイルと書くことにする。

さて、そのライフスタイルに表れる価値観と世界観だが、価値観とは、善悪とか好き嫌いとか勝ち負けとかの〈自分の判断基準〉になるものであり、世界観とは、格差社会とか個人主義とか競争のない社会とか世界の〈自分の捉え方〉のことだ。

その価値観・世界観で様々なモノゴトを見て、判断し、何かを選び取って生きている。つまり、ライフスタイルにはその人の「いちばん大切なもの」が、そもそも表れているのだ。当然ながら、価値観も世界観も、着替えるように簡単に変えられるものではなく、まさにその人の生命と言い換えてもいい。*1

ここで重大な誤解が生じる可能性がある。「愛は与えることであり、それは物質ではない」ということだけを見て、善人ぶった言動や振る舞いを愛だと勘違いしてしまう可能性だ。簡単にいえば〈形だけ真似た愛っぽい振る舞い〉のことだ。しかし、当然ながらフロムが示しているのはそれではない。

愛として与えることができるものは「自分のライフスタイルであり、それ以外を与えることは不可能」ということであり、しかもそれは「容易に変えられない」という点こそ、驚愕して受け取るべきものだ。

たとえ善人ぶろうと美辞麗句で飾り立てようと、自分のライフスタイル以外を与えることはできない。

では仮に、善人ぶるために他者に優しくするとしたらどうなるのか。その場合、「自身を偽って善人ぶる」というライフスタイルを示すということであり、その人は〈自分を偽り善人ぶることを指して愛と呼ぶという生き方〉を示すことになる。

自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

自分が持っていないものを示す(与える)ことはできない。

もしも自分の生き方が「善人ぶること」や「我慢すること」であったとしたら、それしか示せない。それは「善人の振る舞いをしろ」とか「我慢しろ」という押し付けや支配を相手に示すということだ。愛だと思って与えたものが、愛とは真逆のものかも知れないのだ。

この節の要点:

  • 与えられるものは自分のライフスタイルだけ。
  • 〈持っていない良さげなもの〉を与えることはできない。


愛することを実践できる条件

あらためて強調するまでもないが、与えるという意味で人を愛することができるかどうかは、その人の性格がどの程度発達しているかということによる。愛するためには、性格が生産的な段階に達していなければならない。この段階に達した人は、依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとか何でも貯めこもうという欲求をすでに克服し、自分のなかにある人間的な力を信じ、目標達成のためには自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。これらの性質が欠けていると、自分自身を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない。
p.47~48 (下線筆者)

フロムは、(単に与えることではなく)「与えるという意味で人を愛する」ことができるかどうかは、その人の性格の発達段階によってしまうと言っている。このあたりの記述は「愛を与えるには」という文脈で書かれていて、フロムは愛を与えたいという読み手の純粋さを疑っていないように思える。この引用部分の最後で「これらの性質が欠けていると、自分自身を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない」と書かれていて、その怖さや勇気のなさの意味について読み手にとって自明だと思っているかのようだ。

しかし私は、ここに誤解の可能性を感じている。怖さであり勇気のなさと言えばその通りなのだが、その意味の受け取り方は人によって大きく異なる可能性がある。

前節で「自分を偽って善人ぶる」ことを例に出したが、これは自分の本当のライフスタイルを示すことが怖く、そのままのライフスタイルを出す勇気がないことの現れと表現することもできる。しかしそれだけではない。この例で想定する人物は、自分のライフスタイルについて以下のように思っていると推測できる。

  • ライフスタイルも世界も、変えられないものと信じている
  • 自分は理想的でないと感じている
  • 本当の自分を隠したままで正当化されたいと思っている

たしかに「自分自身を与えるのが怖く」と言えばそうだ。しかしそれだけではなく、ライフスタイルに疑問を抱いたり、どうしてそうなるのかを考えたり、理想に近づくための諸々について能動的でない。引用部分に「目標達成のためには自分の力に頼ろうという勇気を獲得している」とあるが、その勇気がない。

ここはもう少し踏み込んだ方がよいようにも思うが、本旨と離れて散漫になってしまいそうだし、筆ものらない。なので本旨に集中するため、フロムがここで言わんとしていることを私なりに整理すると、以下のような構成になる。

  1. 与えるという意味で愛するのは、自分自身を与えるということ
  2. 自分自身を与えるのが怖かろうと、それ以外を与えることはできない
  3. よいものを与えるには、自分がよいものを持たなければならない
  4. 愛するためには自分が変わる以外に方法はない
  5. よいものとは性格に起因する人間性のこと
  6. 依存心・ナルシシズム・損得勘定などを克服している必要がある
  7. 自分を信じ、自分の力に頼ろうという勇気を獲得している必要がある
  8. これを持たない人は、自分の未熟さを晒すのが怖い
  9. これを持たない人は、自分を変える勇気がない

さらに簡単にまとめてしまうと、愛するとは、自分のライフスタイルを適切なものに変えることであり、それは愛の技術を身につけるということだ。

逆を言えば、愛の技術を身につけるためにはライフスタイルを見直すことや、自身が感じている怖さと向き合わなければならないということだ。見直さないし向き合わないのであれば、愛の技術を身につけることはできず、結果として(正しく)愛することはできないということだ。

自分の価値観の押し付けを、愛だと言い張ることはもちろんできるが。

そして見落としがちなことがもうひとつある。それは「自分は愛せるからライフスタイルを変える必要がない」と考える人は、愛の技術を身につけていないということだ。

この節の要点:

  • 自分のライフスタイルを変える勇気を持つことでしか、愛の技術は身につかない
  • 愛するとは、自分のライフスタイルを適切なものに変えること

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

*1:絶対に変えられないものではなく、ライフスタイルを変えるという強い決意と実際の行動があれば、それこそ「思うがままに」変えられるものでもある。

会う、逢う、遭う

人や出来事と対面する意味での「あう」にはいくつかの漢字がある 。それぞれ以下のような違いがあるように思う。

 

…集まる。会う意思が有る。

…運命的な要素。逢う意思は問わない。

…偶然的な要素。遭う意思は無い。

 

逢うは、逢瀬のように意思がある場合もあれば、巡り逢いのように意思がない場合もある。

また、""が付く漢字は「道を行く」の意味があるので、運命の 流れの中での【出逢い/出遭い】という意味合いもあるように思う 。しかし"会"には運命や偶然の要素がない。

言葉は時代と共に変化していくものだしあまり厳密に意味を縛るの もよくないとは思うけど、そもそも籠められた意味というのもあって、似たような意味でも違いがあったりする。その違いに気づいたり、気づいた違いを無視しないで使い分けたりしないと、意味は豊かにならない。

単に言葉の意味が豊かにならないだけではなく、言葉によって作られる人生も豊かにならない。言葉の意味に敏感になることは人生を豊かにし、幸せに気づきやすくなる。

ただし、言葉の意味に敏感になることは、言葉の原義に厳しくなることとは違う。自分が使う時には意識して使い分けるけれど、他人が使う時には寛容になった方がよい。言葉の意味を豊かにしたいの は「自分の勝手」だからだ。特に日常会話では、言いたいことが通じれば細かいことはなんだっていいんだから。 

信用シール

信用をシールのようなものと考えてみる。

自分が信用できると思ったものに、「自分マークの信用シール」を貼るわけだ。想像上のシールなので何にでも貼れる。人にも会社にもお金にも、言葉にだって流行にだって貼れる。

信用シールは無制限の信用じゃなくて、限定的な信用の意味で貼れる。たとえば、「暴力を振るわない」という信用シールとか。 暴力を振るわないことは信用するけど、それ以外については特に信 用しているわけじゃない。自分の分は払う信用シールとか、 嘘をつかない信用シールとか、来週デートする信用シールとか。

それを貼るのも貼らないのも自分なので、貼りたければ貼ればいいんだ。もちろん貼らなくてもいい。自由だ。でも、貼っておくといちいち不安にならなくて済む。

信用シールは無言の約束のようなものだ。この信用シールはきっと破られないだろうって期待とも言える。丈夫なシールだったら、ちょっとやそっとのことじゃ信用シールは破れない。ぺらっぺらのシ ールだったら、ちょっとしたことでも破れちゃう。

信用シールは同じものに何枚でも貼れる。やっぱり信用できるな、もう一枚貼っちゃおう。もう一枚、ええい、もう十枚貼っちゃえ! なんてこともできる。

でも、何かの事情で期待通りにならなかった時、信用シールが破れることがある。薄いシールだったり一枚だけだったりすると、けっこう簡単に破れちゃうかも知れない。

信用シールが破れるとちょっと困ったことになる。シールを剥がせないからだ。つまり「破れた信用シール」が貼り付いたままになる 。もちろん、その上からシールを貼り直すこともできるけど、破れ ちゃったところにもう一度貼る気にはなかなかなれないかも知れな い。

他人が貼り付けたシールが見えることもあって、自分の信用シール を貼り付ける前の参考にすることもできる。たくさんの人の信用シ ールが何枚も貼り付けられていれば、信用できそうだから。特に自分が信用している人のシールなんか見つけちゃうと、「信用の連鎖 」で安心してよさそうな気がするんじゃないかな。

信用シールは、もちろん自分にも貼れる。自分に一枚も貼れなかったら寂しい。でも、シールを貼ってしまうと、自分の期待に応えられなかった時にシールは破れる。破れた信用シールは悲しい。 そう思うと、自分に信用シールを貼るのをためらってしまう。

信用シールは、もちろん他人からも貼られる。他人が自分にシールを貼ってくれないと悲しい。シールが貼られてしまうと、シールを破かないように注意しないといけなくなる。それはプレッシャーになっちゃうかも知れない。でもちょっと待って。本当はたいして信 用してないのにシールを貼ってくる人もいるかも知れない。その人 の都合で勝手に信用してくることだってあるかも知れない。「きっとこの商品を買ってくれる」信用シールなんか勝手に貼られても、そんなの破ったっていいんじゃないかな。

自分に貼られた信用シール、それは誰が貼ってくれたシールだろう ?

大切な信用シールがたくさん貼られてたら嬉しいよね。そういう大切な信用シールは、破らないように大切にするときっと嬉しくなる 。いらないシールは破っちゃってもかまわない。破れたシールが目障りだったら、自分の信用シールをその上に貼っちゃえばいいのさ 。