「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

人としての成熟

大切にするとはどういうことか。

大事に思うとか愛することとかってのは、具体的じゃないので説明にはなっていない。では具体的にどういうことなのか。

それを考えるためには、まず「大切にしたいものは何か」を考える必要がある。

誰かのことを大切に思ってる、あなたが大切だ...とか言いながら、その実、つまらないことでいつまでも悩んでたり、自分はダメだなあと思ってみたり、自分のここが嫌いとか言ってみたり、そんな感じで自分を大切にしていない人が世の中にはたくさんいる。このような自分を大切にしていない人は、他人も大切にすることができない。

なぜかというと、練習をしないと身につかないからだ。自分相手だろうと他人相手だろうと、練習してないことはうまくできない。

たとえば「大切にするとはどういうこと?」ということを質問してみると、人によって様々な答えが返ってくる。

  • 思いやること、気遣うこと
  • 助けてあげること
  • 許すこと
  • 一緒にいること

などなど。

わかるだろうか、これらは自分が他人にして欲しいことだ。そして、こういう答えを返す人のほとんどは、自分に対してそれをしていない。自分を大切にせず、他人に大切にしてもらうことを求めている。

他人に大切にしてもらうことを求めていると、無償で他人を大切にしようという気持ちにならず、自然と見返りを求めてしまう。

「私は○○してあげているのに!」などの不満も出てくる。たとえ言わなくても心で思っていればそれはどこかで必ず伝わるものだ。そういう「返せ」というプレッシャーを相手に与えること自体、大切にしているのとは真逆だ。だからもし本当に大切にしたいのなら、まず自分を満足させ、他人に対してはただ与えるだけで良いという精神状態になる必要がある。

自分を大切にしていれば「他人に大切にされたい!」と思うことが少なくなる。その逆に、自分を大切にしていない人は、他人に大切にしてもらいたいと思うばかりで、大切にしてあげることができない。これは「大切にするということがどういうことかわかっていない」のだ。だからそもそも「大切にできない」のだ。

では大切にするとは、具体的にどういうことか。

先ほど「自分を大切にしていないと...」という話をしたので、今度は【自分を大切にする】とはどういうことか考えてみよう。

自分の望みを叶えることだろうか? 自分を甘やかすことだろうか?
それともその逆で、自分の欲望に負けずに、世間的に立派といわれるように振る舞うことだろうか?

どれも違う。
その前にもっと重要なことがある。

それは「知る」ということだ。

自分が本当に望んでいることを知っているだろうか?
自分が一番重要だと思っていることを知っているだろうか?
自分の口癖を知っているだろうか?
自分の思考の癖を知っているだろうか?
自分がよくしてしまう失敗を知っているだろうか?

誰かを大切にしたいなら、その人が何を望んでいるのか、何を嫌だと思っているのか、よく知らなければ大切にはできない。口癖や思考の癖や、よく失敗することを知って対応することもできない。
同じように、自分を大切にしたいなら、自分が本当に望むこと、本当に嫌だと思うことを知らなければ大切にはできない。口癖や思考の癖や、よく失敗することを知ってうまく乗り切ることもできない。

この「知る」ということは実は簡単ではない。
人間は自分に嘘をつくからだ。
だから何度も何度も、時間を変え場所を変え、自分に聞いてみなければならない。自分に聞くというのは、要するに自分を観察するということだ。*1

自分がどんな時に、どう感じ、どう反応するのか。これをよく知ることで、今まで見えていなかった自分、あるいは見ようとしなかった自分も見えてくる。そして、自分が見えるようになり、こんな自分は嫌だと思う部分を受け入れて許すことができるようになると、心が軽くなる。

実は自分を苦しめているほとんどのことは、自分自身が行なっている。自分をよく知ることで、それまで、どれだけ自分で自分を苦しめていたのか知ることができる。そして、知ることでやめることもできる。

これが自分を大切にするということだ。

これが実体験でわかるようになると、他人に見返りや世間的な体裁を求めることが、いかに自分自身を苦しめ、他人を苦しめることになるかが、肌で実感できるようになる。

そうなると、他人を【自分の一部】として大切にすることができるようになる。

このようになると、「自分と同じように他人を愛する」ということができる。

今書いたことを実体験で理解している人を、私は成熟していると表現しています。成熟している人をものすごく簡単にまとめて表現してしまうと、「自分が大好きで、自分を大切にする方法を知っていて、その方法で自分と同じように他人を愛せる人」ということになる。

*1:スピリチュアルとかで言われるような内的な自分に話しかけるということではない。自問自答するのであればいいが、「自分と違う内的な自分がいる」と考えるのは人格を分裂させる自己暗示になりかねない。「自分を他者のように扱う」のは百害あって一利もない。

私の考える対話の場と参加姿勢

※以前に別のところに書いたものの転載です。

えーと、なんかモヤモヤするので思うところを書きます。

始めに明確にしておきますが、これは私がそう思っているというだけで、唯一絶対の正解だとか、一番素晴らしい考え方だとか、だから同じように考えろだとか、そんなバカバカしいことを主張する気はさらさらありません。どう受け取ろうが読み手の自由です。

1. 哲学カフェというのは何なのか

巷の哲学カフェにも様々な色合いがあって、これぞ哲学カフェというものがあるようで、そういったものは実際どこにも無いんじゃないかなと思います。あえて言うなら、主催者やファシリテータごとに哲学カフェの形がある。
もちろん基本線はあります。ゼミじゃないし、会議じゃないし、討論会でもない。「参加者が対等の立場で参加する、対話の場」であって、そこでの話題は哲学的なことだということ。
多くの哲学カフェではルールとして、特定の宗教や政治、団体活動への勧誘や、商売の話をすることが禁止されています。それは対話を目的としていない行為だし、だいたいがトラブルの原因になるからです。
でも、「宗教って必要なの?」とか「民主主義っていいの?悪いの?」と言ったテーマは、宗教や政治を題材にしていても哲学的だと受け取られます。これは、特定の宗教や政治思想に対して、正しいとか素晴らしいとか間違ってるとか悪いとか述べ合うということではなく、「人間や社会にとってどのような意味を持っているのかを問うているから哲学的なのだ」と私は考えています。
哲学カフェとはそのような哲学的な問いに対して、「参加者が対話を通して深めていく場」だと思っています。

2. 対話の場の目的

哲学カフェが対話の場である以上、異なる意見の参加者がいます。
その中で何を話すのか。何を目的に対話するのか。
正しさの勝負をするためではないし、知識をひけらかすためでもない。自己顕示欲を満足させるためでも、意見を評価したり優劣を付けたりするためでもない。みんなでまとまって何かの活動をするのでもない。
だって、正しさ勝負で勝ったらなんになるんでしょうか。知識をひけらかして、誰かにすごいと言われたらなんになるんでしょうか。そういったことを求めたければ、対話の場でないところで求めればいいことです。
そうではない。私は対話の場はまず何よりも、「他者の意見を聞いてみるための場」だと思うのです。そして、意見を聞いたその先は自分で進めればいい。だから意見をまとめて合意形成をしたり、何か結論らしきものを出したりする必要はないと思っています。
対話の場の目的をあえて私なりに言えば、哲学的な(あるいはそれ以外の)答えを見つけることではなく、自分とは違う意見に触れることによって刺激され、自分の価値観をよりよく更新する「きっかけ」を得ることが目的だと思っています。
さらに言えば、もっとも更新されるべき事柄は、テーマの問いに関する回答ではなく、他者の価値観に対する自分の態度であろうと思っています。

3. 意見を述べ合い、何を深めるのか

先ほど私は、「参加者が対話を通して深めていく場」と書きました。でも、参加者が思い思いに意見を述べ合うだけで深まっていくでしょうか。これは無理だと思います。述べ合うだけでは対話になっていません。
それが対話であるためには、他者への問いかけがなければならないです。そして聞き、受け止めること。それがあるからこそ刺激され、対話の場として機能して行くのだと思います。
問いかけることによって他者の視点や考えを掘り下げ、他者の視点や考えをより深く理解する。もしかしたら何か共通点が見つけられるかも知れない。もしかしたら相反する側面を見つけられるかも知れない。何かを深めるために必要なことは、「モノゴトの多様な側面を洗い出し、その対象の全体を多角的な視点で捉える」ことであって、対話の場は意見や価値観の優劣を競う場ではないはずです。
そして対話の場で深めるのは、何よりも【自分の価値観】であると思っています。

4. 自分と他者の価値観を大切にする

しかし、問いかけるだの深めるだの以前に、対話の場でとても大切なことがあります。それは自分の価値観と他者の価値観の両方を、同じように尊重するということです。
問いかけは、ともすれば否定や反論と受け取られることがあります。問いかける側はそうならないように配慮する必要がありますが、反面、問いかけられる側は問いかけに真摯に向き合わなければならないです。
仮に問いかけではなく否定や反論だったとして、だからなんでしょうか?
それで自分の価値観が脅かされるんでしょうか?
自分の価値観を変えなければいけないのでしょうか?
そんなことはありません。
「私はこう思う」のであれば、自信を持って「私はこう思う」と言えばいいのです。防御する必要も反撃する必要もない。他者に合わせて意見を変える必要もない。
またその逆に、もしもその問いかけによって「あ、そうか」と気づくことがあったなら、さっさと自分の意見を更新すればいいのです。意固地になって自説にこだわる必要はない。自分の価値観や意見は、自分に全権があるのですから、他者にどう言われようとそれを自分の糧にすればいいだけです。
他者の問いかけをきっかけにして自分の価値観を更新する。それが、私が対話の場に参加する目的であり、有益な場にするための不可欠な要素だと思っています。
私はこのような姿勢そのものが「自分の価値観を大切にすること」であり、同時に、「他者の価値観も大切にすること」であると考えています。他者の意見を自分への攻撃と考えず、考えるきっかけを提供してもらったと受け止めることで、互いの価値観を尊重することができるのだと思っています。

5. 私は何をし、何を望むのか

これが私の考え方であり、対話の場に限らずどこにおいても変わらない私の生き方です。
ですから、対話の場だからといって特別なことは何もしません。他者へ問いかける時に配慮はしますが遠慮はしません。仮に答えてもらえなくても、それで怒ることもありません。私が絶対に正しいのだという主張もしませんし、お前は間違っているとも言いません。褒めませんし、褒めてもらう必要もありません。
私は私の意見を言い、疑問に思ったら問いかけるだけです。参考にしたければするし、したくなければしない。私の勝手です。他者も同じように勝手にすればいいと思っています。
私が対話の場で他者に望むことがあるとすればひとつだけです。
それは自分の価値観と他者の価値観を、同じように尊重するという態度です。誰が正しいのでもなく、誰が優れているのでもなく、当人の価値観を決めるのは当人だけだということを、常に忘れないということです。

6. さいごに

最初にも書きましたが、これは私の考え方であり、他者に強制するものではないです。なぜこれを書いたのかというと、ひとつは、「私はこういう考え方で参加している」ということを表明しておけば説明が簡単だからです。もうひとつは、理想的な対話の場とはどういうものなのかを考えてみても、色々な意見があって理想形が見えにくいです。私のスタンスを明確にしておくことで、少なくとも私の考える理想形は見えると思ったからです。
他の参加者がどうであれ、私は私の考え方で生きているし、それを変えるも変えないも私の自由だと思っています。同じように、他の参加者も自分の考え方で生きていて、それを変えるも変えないもその人の自由だと思っています。
この考え方を前提に「理想的な対話とはどういう形になるか」を考えた結果、私はここに書いたように捉えるのが妥当だろうと思ったということです。

「自分はすべてを知ることはできない」という生き方

【自分はすべてを知ることはできない】という自覚は、案外難しいものだ。

哲学の効能は「考える力を養えること」と言われているようだけど、実は「答えは安易に出せるものではないと知ること」の方が大きい。

考える力なんて程度の差はあれだいたいの人は持っている。哲学を学べばそれが向上するとは限らない。知識があるから、弁が立つから、いかにも頭が良さげだから…しかし頑として持論を曲げない人もいる。

なるほど頭はいいかも知れない。でもそれを指して「あの人は哲学をしている」とは言い難い。

哲学をすることに限れば、他人の意見に耳を傾けるというのは、いい人になるためではない。違う視点、違う意見もあることを知り、自分の思考をより普遍的に通用するものに変えていくために必要だから耳を傾けるのだ。自分で反論や別の視点に気づけるならいいがそれが難しい。しかし他人は容赦がない。

他者から出てくる容赦ない反論や別の視点は、自分の中の臆見に気づくきっかけになる。ここで安易に「それは違う」とか「私の考えと同じだ」とか判断してしまうと小さなズレに気づくことができない。そうなれば自分の中の臆見にも気づかない。

反射的に応じれば【私は知っている】と思ったままだ。

反射的に応じてしまうのは、真理とは別のものを求めているからだ。

承認欲求だと言えばそうかも知れない。
論戦に勝つことかも知れない。

ともかく、「より普遍的な答え以外」を求めていることは間違いがない。

「より普遍的な答え」を求めず、【私は知っている】と思ったままでいたいのは安心したいからだろう。

しかし持論に安住することが哲学なのか?
そうではあるまい。

自分の弱さに気づき、それに抗って自分の思考を問い直す。
【私は知っている】と思っていたらそれはできない。

【自分はすべてを知ることはできない】という自覚は、自分を見つめなければ持てない。

これは知識ではない。
自覚であり諦念に近く、そして【習慣】だ。

無知の知」の言葉だけを覚えて知ったふりをすることは、ただの思い上がりだ。哲学の概念を知ることが、哲学を学ぶことにはならない。

無知の知」でも「不知の知」でも、他者の言葉を借りて「違うんだ」と得意げに語ったところで、哲学を知っていることにはならない。

自力で深めもせず、虎の威を借りているに過ぎない。

哲学をするというのは、哲学の概念や言葉を使うことではないのだ。もちろん読書でも対話でもない。

哲学をするというのは、【自分はすべてを知ることはできない】という自覚を持ちながら、それでも一歩ずつ真理ににじり寄ろうとする「生き方(在り方)」を指している。生き様に反映されない哲学など、哲学ではない。

「言葉だけの無知の知」は哲学から最も遠い。