「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

哲学も対話も苦い

ずっと疑問に思っていた。なぜ、哲学対話のテーマで「対話ってなに?」というテーマをあまり見かけないのか。
※まったく無いわけじゃなくてたまにはある。「対話バンザイ、討論は嫌い!」みたいのも含めればもっとあるけど…。

対話そのものをテーマにしないのはなんでなのか。

問いと思考

問いがなければ思考できないが、問いがあってもその質が低ければ、生まれる思考の質も低くなる。

問いはスキルであり型がある。しかし型があってすら難しいものだ。いい問いには、「いい問いになる型」が見える。

質問しないより質問した方がいいけど、だからってどんな質問でもいいわけじゃない。質問には「相手を貶めるための質問」もあれば、「自分の意見を肯定させるための質問」だってある。そういう質問は問いの質がとても低い。

なぜなら答えを予見しているからだ。
それじゃ、思考の質は頭打ちだ。

「いい問いの型」には予見はない。

対話が語られない

もしかすると「対話」はわからなさすぎるのかも知れない。あまりにわからなければ鋭い問いも出てこない。それなら深い思考になりにくい。

しかし、だからと言ってあんまりなテーマが目につく。

  • 対話はなぜ素晴らしいのか(素晴らしいところをいっぱい出そう!)
  • 対話と討論の違いはなにか(きっと対話のよいところ、討論の悪いところがいっぱい出るぞ!)
  • 社会をよくする対話(多様性を認めれば社会は住みやすくなるよね!)
  • 対話と圧力を考える(圧力はよくないよね!)

こんなもん予見じゃねえか。

同じベクトルの意見だけにしようという恣意がはみ出ていて、多角的な思考ができるわけがないし、哲学でもなんでもないただのおしゃべり会にしかならん。

テーマは決めつけの形じゃないかも知れない。
予断じゃないかも知れない。
だけど、予見は予断とは違っても無関係じゃない。

  • 予見 あらかじめ相手の答えを見る
  • 予断 あらかじめ正解を決めている

どちらも相手の意見に興味なんかない。そこには、自分の意見に賛同して欲しい気持ちばかりがある。

予見や予断のあるところで対話をするのはものすごく難しい。予見や予断にあらがって異論を出すには勇気がいる。それは明らかに対立を生むからだ。対立を生むと覚悟して踏み込むんだから勇気が必要だ。

しかし、そんな勇気がなきゃ対立する意見が言えない場で、そもそも対話になるのか?
対話を語ろうとしても、その場に「対話に対する予見や予断」があったら、相当に勇気がないと対話なんかできないだろう。

対話の捉えられ方がさっぱりわからない

いったい、「哲学対話」をしている人たちは「対話」についてどれだけ理解しているのだろうか?

対話について話せば予見や予断が横行していて、鋭い意見に出会うことはあまりない。

鋭いものは触れれば痛いんだ。でも対話で痛いと感じる意見に出会わない。というか、そもそも対話について語られる機会がめったにない。

「哲学って云々」はよく聞くのになんで?
対話を掘り下げること無く「哲学的」ばかりに注目するのは片方に寄り過ぎてないか?

また、対話をさも素晴らしいものであるかのように称賛して掘り下げることをしないのもよくわからない。多面的であるはずなのに、称賛したい面だけを選んでいるように見える。

「対話はコミュニケーション」なのか?それだけか?
他者との交流の仕方…それだけの話なのか?

様々な軋轢を解消する魔法のような方法?本当か?

話し合えばわかりあえる?本当か?

そうじゃねえだろ。

人生、争い、理解、不協和、自尊心、自制、成長、依存、決裂…

考えれば考えるほど多岐に渡って関連していて、まったく一面的じゃないし、万能でもない。

対話の素晴らしさって、いったい何のことだ?

対話ブームの悪臭

どこかで「みんなで対話の素晴らしさを共有しましょう」というのを見かけたことがある。なんだそれは?なんだかものすごい悪臭を放っている。

その悪臭は「思考停止」の悪臭だ。
素晴らしいに違いないという決めつけ。
みんな賛同しなさいという穏やかな同調圧力

それ、対話か?

この違和感はこう言い換えることもできる。

・哲学は「わかった気にならず疑う」ことが大切
・対話は「異なる意見に耳を傾け、まず受け止める」

このように哲学も対話も素晴らしいものなので【疑わず、異論を挟むな】

私にはこのように感じられている。

哲学も対話も、自分では中々気づけ無い思考の粗に気づき、丁寧に整えていくものだと思う。

だから反論は大変にありがたく、自分に直撃する痛ければ痛い反論ほど価値がある。

それは独力で入れることがとても難しいものだからだ。

なのに「自分に向けられる反論を喜ぶ人」をあまりに見かけない。

哲学対話をやっている、哲学プラクティショナーだと明言している人を観察しているけど、ほとんどいない。もちろんまったくいないわけじゃないけど。

でも、それはどういうことだ?
本当は何をやっているの?

求めているのは真理か?

言い方を変えよう。
そこに疑念はあるのか。

哲学に向けた疑念はあるのか?
もっと哲学を問わなくていいの?

対話に向けた疑念はあるのか?
もっと対話を問わなくていいの?

自身に向けた疑念はあるのか?
もっと自身を問わなくていいの?

求めているのは真理か?
それとも称賛か?

「今までと同じ問いを形を変えながら問い続ける」ってのはなんか良さげな表現だけどさ、それっていいことなの?同じ次元の問いを、言い方変えただけじゃないの?もっと質の高い問いに変えなくていいの?

哲学と対話の苦さから目を背けたら終わり

哲学は無知の知だと言いながら予断をする。
対話は多様性を受け入れることと言いながら気に入らないやつを排除する。

なんなんだそれは。

哲学も対話もいいものだというのは自由だし私もそう思う。だけど、「いいものだ・素晴らしい」で止まった瞬間から腐り始める。

哲学も対話も苦い。
真剣にやれば必ず自己に跳ね返る。
痛いし苦しい。
ちっとも美味しくない。

しかし、その苦さも本質のひとつのはずだ。
たしかにいいものだし、素晴らしいと思うけど、それだけじゃないはずだ。

苦いものを味わわず、見ないふりをするのはどうかと思う。

「なぜ苦いのか」を直視しないのは、中途半端なんじゃないかなと思う。

人が暴力をふるうのはどんなとき?

■加害者・被害者が共に暴力だと知っている場合

自分の中の満たされない穴の埋め方に「困った時」。困らなければ暴力にはならない。

暴力が常態化した場合は、満たされなさを感じると反射的に暴力に結びつく。困り度合いが「手を伸ばさなければ醤油が取れない」程度でも。

楽しみとしての暴力もあるが、これも多くの場合は「穴の埋め方を他に知らない」「手っ取り早く埋まった気になれる」ことで行動に結びついていると考えられる。

■被害者だけが暴力だと受け取っている場合

加害者側の無自覚ゆえの暴力の場合、ただ単に無自覚であることが暴力の原因なので、自覚すればやめる。これは被害者側が一方的に暴力だと申告することによっても生ずる。それがとても暴力と呼べないものだとしても。

また、双方の力の差があまりに大きい場合、強いものの何気ない所作がすべて暴力的に映る場合があり得る。たとえば巨人が歩くだけで足元の小人が死ぬ思いをするように。

果たしてこれを暴力と呼ぶべきかは、【語の用法の拡大解釈をどのように戒めるか】によって変わる。

■加害者も被害者も暴力だと思ってない場合

三者がそれは暴力だと指摘する場合もあり、これは加害者・被害者双方が暴力の自覚を持っていない。

たとえば、これが正しい教育だから嫌でもやらなければいけないと思っている親と、親の言うことだしやるのが当然だし叱られても仕方ないと思っている子供との関係に体罰がある場合、他の考え方や方法を知ることによってやまる場合がある。よく考えれば他の方法で代替できることの場合、それは暴力に「たよっている」と考えられる。

しかしたとえば、加害者・被害者の双方が第三者には理解できないルールのゲームをしている場合、どれほど暴力的に見えてもそれはゲームである場合がある。UFCなどの過激な格闘技試合は多分に暴力的だが、双方が承知して自覚的に参加しているものを指して暴力と呼ぶのは、価値観の押しつけと呼ぶ方が適切なように思う。これについても、【語の用法の拡大解釈をどのように戒めるか】によって変わる。

■考察

「暴力そのもの」と「暴力的に見えること」との違いを無視して一緒くたに捉えてしまうと、「暴力的に見えることはすべて暴力」という暴論になりそうだ。「暴力はいけない」という価値観は一度横において、それがなんであるのかを観察しながら考えてみるのがいいのだと思う。

前段で「たよっている」と表現したが、暴力的な手段にたよって「なにを成そうとしている」のだろうか。人間の行動原理を考えるときに外せないのは「目的」と「状況・条件」だ。能動的な理由と受動的な理由と言い換えてもいい。

暴力の受動的な理由は、概ね「防衛のため」だろう。
では能動的な理由はなんだろうか。それはおそらく「他者をコントロールするため」だ。

親や教師が子どもにいうことを効かせるため、自分の信じる理念や教義を認めさせるため、屈服させるためなど、すべて相手を従わせることを目的としている。相手の自由を蹂躙するために暴力をふるう。

では、他の方法はないのか。なくはない。それは対話だ。

残念ながら、対話は譲歩を求める以上のことはできない。相手が譲歩せず(できず)、こちらも引き下がれない場合、そこから先は強い者が蹂躙することになる。

しかし多くの場合、対話を十分にする前に、軽率に、そして短絡に、暴力にたよって相手を従わせる道を選んでしまうのだろう。なぜ軽率に、そして短絡になるのか。それは暴力が短絡的に「悪いもの」とされることによって、対話の技術が双方に足りない状況が続いているからではないかと思う。

短絡は短絡を呼ぶ。暴力をふるう人だけではなく、それを責める側も含めて、双方にある短絡によって暴力がふるわれる。

人が暴力をふるうのは、【ことを短絡に捉えたとき】ではないかと思う。

行為に対する誠実さと自己表現の真剣さ

ある人のエントリを見た。ある絵本作家が自己紹介をする際に、絵本作家ではなく「絵描き」と名乗った話から、哲学者や教師が絵描きのように名乗るとすればなんと名乗ればいいのだろうとか書いていた。

それで思ったんだけど、そもそも「私は哲学者です」というのはどういう意味なんだろうか?


まず、絵描きも哲学者も職業名ではないだろう。
つまり、こういうことだと思う。

  • 絵本作家 ←絵を描くので絵描き
  • イラストレーター ←絵を描くので絵描き
  • 漫画家 ← 絵を描くので絵描き

全部、絵を描く職業だ。

哲学に関わるそれらしい職業で考えてみると、つまり、こんな感じかな。

・哲学研究職 ← 哲学の知識があるので哲学者
・哲学を教える非常勤講師 ← 哲学の知識があるので哲学者
哲学史を教える社会科教師 ← 哲学の知識があるので哲学者

全部、哲学に関わる職業だ。

しかし待て。
「哲学を研究する」「哲学史を教える」はたしかに哲学の知識があるだろうけど、それは哲学者と名乗る条件を満たすのか? 哲学史を教える社会科教師はそれだけで哲学者になるのか?

絵を描く知識を持っているとか、絵を描く道具を使いこなせるとか、絵の描き方を教えられるとか、それだけで絵描きとは呼ばないだろう。絵描きは絵を描く人であり、プロアマを問わないと思うので職業名を指しているのではないんだと思う。だから職業として成立していようが成立していなかろうが関係なく、【何かの条件を満たせばそう名乗ってよい】のだろう。

絵描きが絵描きと名乗れる条件はまず「自力で絵を描く」ことだろう。

絵描きと名乗ったとしても、他人の絵のコピーを自分の作品だと言っている人を絵描きとは呼ぶまい。たとえ下手だろうと、自力で描く人を指して絵描きと呼ぶのではないだろうか。だから【自力で描くこと】は条件のひとつになるだろう。*1

そうだとすれば、哲学者と名乗れる条件は哲学の知識を持っていることではなく、「自力で哲学をしている」ことになる。

哲学研究職の人が全員「オリジナルで高品質の哲学をしている」と言えるのかわからないけど、でも哲学を研究するからには丸暗記やコピペではなく自分で考えるプロセスはたぶんある。

だけど哲学史を教える社会科教師にそれはあるのだろうか。哲学史や哲学者を紹介することを指して「自力で哲学している」とは言えまい。だから哲学史を教えるだけでは、哲学者と呼ぶ条件を満たさないだろう。

「自力で哲学している」というのは、少なくとも「自力で論を構築する」ことのように思う。元々は他の哲学者の論であっても、自分で検証(批判)しながら組み上げる過程はやはり哲学をしていると呼んで差し支えないように思う。教師であれ学生であれ誰であれ、自力でそれをやる人なら条件を満たすように思う。

だけど、オリジナルのラクガキを楽しむ幼児を指して「絵描きさん」とは呼んでも、本物の絵描きだとは認識すまい。
では、たとえば高度な贋作者を本物の絵描きと呼ぶだろうか? 呼ぶかも知れない。

だとすれば、本物の絵描きと呼ぶには、オリジナリティや知名度に関わらず品質が伴っている必要があるということではないか。もしそうだとすれば哲学者も、オリジナリティや知名度に関わらず品質が伴った「哲学をしている(論を構築する)」が条件になるのではなかろうか。

教師は職業でもあるので、資格制度に合格するか、「日常的に教える行為」をしていれば教師と名乗れる気がする。だから予備校講師も家庭教師も教師と呼んで差し支えないように思う。これを絵描きのように呼ぶとすれば、その行為から「知識の伝道者」あたりになるのだろうか。哲学史を教える社会科教師はその行為から知識の伝道者とは呼べるが、自力で論を構築しようとしている場合に限ってその行為から哲学していると言えることになる。

つまり少なくとも、「その行為から」なんと呼べるかが決まるのだろう。絵描きも哲学者も教師も、行為する人の名称ということだ。

では高度な贋作者は本物の絵描きと呼ばれる条件を持つとして、贋作者にもプロとアマがあるように思う。プロは本物と区別が付けられない完璧な贋作を目指すだろうが、プロではないアマは自分の能力を発揮できることをまず目指すだろう。贋作の品質は絵のうまさではなく、いかに本物に近いかだ。下手な絵の贋作は、下手でなければならない。

では、贋作ではなくオリジナルの作品であったらなにが品質の基準になるのだろうか? オリジナリティ? 絵のうまさ?

私は「誠実さ」と「自己表現の真剣さ」ではないかと思う。誠実でなければ真剣にはなれないし、真剣でなければオリジナリティがあったとしても品質を感じさせることは難しいように思う。「誠実じゃないけど真剣だ」というのはたぶん成立しないと思う。

※たとえば、片手間で高度なことができることを追求している天才の自己表現は、単なる高度な結果物に真剣さが現れるのではなく、「いかに片手間で高度な結果を出すか」という点に真剣さが現れるのだと思う。

では、哲学における「自己表現の真剣さ」とは何であろうか?

それは行為の誠実さに現れる。少なくとも私は、それを持たない人を哲学者とは呼べない。

だから哲学者は常に、生き方の誠実さも真剣さも問われ、他者との接し方の誠実さも真剣さも問われ、問題の捉え方の誠実さも真剣さも問われる。

 哲学者は、何をするにせよすべて哲学の実践として問われる。(AならばB)

 哲学の実践を問われなくていい人は、少なくとも哲学者ではない。(非Bならば非A)
 
 
以上のことから「私は哲学者です」と言うためには、

  • 自力で論を構築しようとしており(行為)
  • 論の品質を重視しており(誠実さ)
  • それらを自己表現として大切に取り組んでいる(真剣さ)

ことが条件になるように思う。
 
 
※別の表現にすると、【知に対する誠実で真剣な実践(態度)】が哲学者の条件じゃないかなと思う。考えている最中に間違うのは仕方ないことなので間違っててもいい。間違ってたら哲学者じゃないとは言えない。社会学者でも物理学者でも医者でも経営者でもこの条件を満たすなら哲学者の一種と考えてよい。立場や金や好き嫌いのために知をないがしろにする人は哲学者ではない。【知に対する誠実さ】から逃げたり隠したり言い訳したりするのは哲学者ではない別の何かだということ。

*1:たまたまものすごく似た構図になってしまうことがあったとしても、コピーじゃなくて構図から自力で描いたのであれば、他人にはコピーに見えても絵描きなんだと思う。あらためて、似ていないもの出せば「自力で描ける」ことは証明できるわけだし。