「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

「対話の場」の考え方

1)立場を表明しないと対話できない?

質問の前でも後でもいいから、「自分はこういう考えだ」と表明することは礼儀のひとつだと思います。質問するだけして「自分の立場は内緒❤」というのは、一般的な会話の場面でも嫌われる対応だと思います。私は可能な限り、明確に立場を表明するようにしています。
私は「対話の場とは自分や自分の価値観をさらけ出す場」だと思っていますので、立場を明確にする必要があると思います。これは、秘密をさらす必要があるという意味ではないです。

2)違いを明らかにする質問は、攻撃や悪意?互いに同じである面を探していくことが対話?

「異なる視点に気づく」ための場でもあると思うので、悪意でも攻撃でもなくて必然だと思います。なので、「同じ・違う」の両方を探って明らかにしていくのが、対話の場での基本的なアプローチ方法だと思います。

3)自分と価値観が違う人はバカ?

価値観が違うのは普通のことなので、それ自体はどうでもいいと思います。問題は、「異なる価値観が見えた時にどう振る舞うか」だと思います。
世間的に言われる「対話的態度」が何を指しているかわかりませんが、私の中での対話的態度とは、異なる価値観の根拠や意図を「知ろうとすること」であって、是非を評価することではないです。
ただし、論理的におかしいと思える点は、深く知るために反論します。反論は否定ではないです。以下のようなケースについて、追加の説明を求める形で出すことが多いです。
・その考えでは対応できないケース
・その考えでは説明ができないケース
・その考えでは困る人が出るケース
要するに矛盾点を突くということです。

【補足】

「正しさ勝負」は禁止した方が良いですが、発言の矛盾点や不足は積極的に指摘した方が良いです。別の言い方をすると、「○○の方が正しい」というのは無意味ですが、「○○の意見はこの点で正しくないのではないか」はどんどん出した方がいい。

ルールとは何か

世の中には至る所にルールがあって、「守らなければならないもの」として定められている。だいたいは、誰かが明確に決めたものだ。まあ、暗黙のルールなんてのもあるけど。
ルールと混同されてしまいやすいものに「推奨」というものもある。「いけないわけじゃないけど、した方がいいよ」というものだ。でも推奨のはずなのに、「なんでそうしないの?」という圧力を向けられることもあったりして、強制なのか強制じゃないのかいまいち不明確だったりする。
それから「戦術」とか「手法」「テクニック」と呼ばれるものもある。使っても使わなくてもいいけど「使うならこうしないと」みたいな決まりがあったりする。これはルールなんだろうか、それともルールじゃないんだろうか?
さて、ルールと呼ばれるものは、一体何なのだろうか?

ルールとは目標に到達するためのレール

何かを行おうとする時、おぼろげでもなんでもゴールをイメージする。仕事であれ遊びであれ、どうなればいいのかとか、どうなれば勝てるのかとか、目標を設定しないと何のためにやってるのかわからない。わからないというのは「不明確」ということだ。これを明確にしないと結果をコントロールすることができない。
イメージする結果から遠ざかるような行為を禁止しておいた方が、たどり着きやすくなる。そのための決め事がルールと呼ばれている。言わば、目標にたどり着くためのレールのようなものだ。行き先がわからないレールって、なんのためにあるのかわかんないよね。
だから、目標が不明確であれば、そこで決められるルールの意義は自動的に不明確になる。

ルールとは線引きのひとつで禁止だけじゃない

また、禁止だけでは不十分であり、強制力の段階によって、禁止事項・推奨行為・選択的手段が不可欠である。これらを別の言葉で表現すると、禁止事項は「法」や「戒律」に換言でき、推奨行為は「道徳」に換言でき、選択的手段は「戦術」か「テクニック」に換言できる。
禁止事項・推奨行為・選択的手段は、そのまま強制力の強さの順だ。強いルール・弱いルールと言い換えてもいいだろう。
ところが、禁止よりも強制力が弱いはずの推奨行為や選択的手段の中には、それを成立させるための禁止事項が生まれる。これはつまり「推奨行為の目標に到達するためのルール」が必要になるからだ。このようにルールの中にルールがあって入れ子構造のようになっているので、【ルール=禁止事項】のように見えてしまう。ある人にとってルールが理解しにくかったりするのは、この禁止・推奨・手段がごちゃ混ぜで、それぞれの「中のルール」が別のルールの禁止事項であるかのように扱われてしまうことが原因のように思う。

ルールの変化

ルールは状況によって改正した方が当然良い。禁止することで自由度が失われるが、その効果として無駄や混乱が抑制されゴールにたどり着きやすくなる。それは、できることの幅が狭まることによるメリットだ。ルール設定時には思いもつかなかった道が見えてきた時、その道を認めるのか、逆に明示的に禁止するのか、選択が必要になる時がある。このような場合にルールは改正される。目標に到達しやすくするために定めるものがルールの役割なんだから。
たとえばスポーツのルール。概ね勝ち負けを争うもので、その中のゲーム性が高くなればなるほど楽しみの幅が広がる。あまり自由度がなければ単純な力の勝負になってしまい、力関係が膠着し、面白さが頭打ちになる。そういう時に選手の活躍の幅を広げるルール改正があると、膠着した力関係が崩れて新しいゲーム展開が生まれる。
たとえばビジネスのルール。業界のシェアを競争したり、品質の競争をしたり、あるいは協業や別の販路を開拓したり、できることは様々あるが、もちろん「不正として禁止」されることも多い。その中で覇者が決まると中々覆せない状態になり、膠着した状態が生まれる。そういう時に禁止事項が緩和されると、膠着した力関係が崩れて経済が活性化する。
スポーツにしろビジネスにしろ、膠着した状態が見えてきたら適宜ルール改正した方が良い。これを換言すると「システムのバージョンアップ」と表現できるだろう。

ルールとは何か

つまりルールとは【目標に到達するためのシステム】だ。目標への到達を目指さないシステムって基本的にないと思うけど。
その内訳は、禁止・推奨・手段で構成される。強いルールと弱いルールのどちらもルールだ。

「哲学に対する誤解」という問題

哲学には、社会的評価に関わる問題がある。
それは以下のような問題だ。

  1. 哲学は役に立たない
  2. 哲学はやらなくてもいい
  3. 哲学をやると気が狂う

これについて、ひとつひとつ述べて行く。

1. 哲学は役に立たない

この意見の背景には、哲学は一般的な生活の問題を考えるものではないという理解が、世間的な理解になっていることに起因すると思う。たとえば形而上学的な「真善美」を考えるとか、「存在するとは何か」とか、そういった【だから何?】的なことを何やら難しく考える学問ってイメージだ。たしかにそういうものだとすれば、役に立てる場面が思い浮かばないだろう。

しかし違う。
それは哲学に対する誤ったイメージだ。

哲学は本質を見るもの

誤ったイメージが持たれてしまう原因には色々あると思うけど、ともかく以下のようなことが哲学のイメージにはあって、これらが哲学に対するよろしくないイメージに貢献している。

  • 哲学の本はだいたい難しく書かれてる。
  • 哲学用語がさっぱりわからない。
  • 哲学の歴史を知らないと何が問題なのかわからない。
  • いちいち面倒くさい考え方をする。細かい。
  • そんなに小難しく考えたところで何の役に立つの?

で、実際のところは概ねこの通りで、小難しく面倒くさい考え方をして用語をたくさん作るのが哲学がやってることだ。

...なんだけど、それは無闇やたらと小難しくすることを目的にやっているのではない。そこが違うところだ。哲学は、細部を厳密に詰めながら、妥協せずに考え続けることを自分に強いているだけだ。だから一見すると、「面倒くさいことやってんな」と見える。

ちゃんと考えるってことはそもそも面倒くさいことだ。それでも、面倒くさいのを超えてちゃんと考えると、「ぱっと見はそうだと思えない本質」が見えてくるものなんだ。だからやる。そう、モノゴトの本質を見るためにやっているのだ。

本質を見る。
これが哲学をする目的であり、哲学が強力な思考手段として役に立つ理由だ。

...しかし、次に述べる問題によって、このこと自体が誤解されている。

哲学が役に立たないと思われる原因

もうひとつ、これは哲学に関わる人に原因がある。それは「哲学なんかやっちゃってるおれカッコイイ」という誤った認識だ。人によって異なるとは思うけど、哲学自体にはそういう魅力がある。なんか頭がいいっぽい感じがする。だけど哲学というのは「覚える学問」ではない。学ぶ学問でもない。考えることを、可能な限り真っ当に実行しようとする学問だ。

哲学をそういう風に勘違いしている人の多くは、哲学書を教科書のようなものだと思っているんじゃないだろうか。もちろん教科書のように読むことはできるけど、しかし哲学書は批判される対象だ。書かれていることは正しいと決まっていない。「本当に妥当なのか?」という視点で読まなきゃ、わからないものだ。

それなのに誰々はこう言ってるとか、何々という考えがあるとか、そういう引用をすれば何か「言えた感じ」になってしまい、結局そのものの本質は明らかにされない。あるいは、「私はこう思う」で止まってしまい、どうしてそう思うのかが明確に説明されない。それを「哲学している」と思っている人が多いように思う。

そうじゃない。

「●●だとしか思えない」という根拠を説得力を持って説明できなければ、何も言えてはいないのだ。それを追求することで、より正確な認識になる。

哲学は役に立つ

だからここで明確に断言する。哲学は役に立つ。なんの?
 
 人生のすべての瞬間において、
 人生に意味を持たせる。
 その役に立つ。
 

人生にはそもそも決まった意味など無い。しかし、だからこそ逆に、自分で好きなように意味を与えることができる。その意味をどうやって与えるのか、その方法こそが哲学なのだ。

様々な学問でも、ビジネスでも、単純作業でも、芸術でも、遊びでもだ。モノゴトを「面白い」と思うには、モノゴトを「こういうもの」と理解している前提が必要だ。つまりそれが、意味(認識)だ。意味の新しい側面に気づいたり、意味を別のことに活用できたりして、意味が更新される時に人は面白さ(世界の広がり)を感じるのだ。
また、世の中に蔓延する間違った考え方や、偏った考え方に気づき、迷いや、無用な罪悪感や、誤った使命感から解放されることの役にも立つ。総じて、自分の人生を明瞭で豊かなものに変えていくことができる。

哲学が役に立たないことがあるとすれば、それは哲学をしていない場合に限ってのことだ。

2. 哲学はやらなくてもいい

人間は生まれながらに哲学者だ。なんとかして世界を理解しようと努め、考える。だけど成長過程のどこかで「これはこういうもの」という手抜きをする。そうしてわからないことを、わかったことにして生きる方法を学習してしまうのだ。

どうしてもその手抜きができなかった人だけが、オトナになっても哲学者のままでいる。

世の中はヒステリーだらけ

「哲学はやらなくてもいい」というのは、その手抜きを肯定する人だけが言うことだ。もちろん、どこまでもどこまでも追求していけばキリがないというのは事実としてある。だからどこかで折り合いを付ける必要はある。

だけど、その折り合いの付け方を適当にしていると、人間はヒステリーを起こすようになる。人には様々な状況があり、その状況によって感じ方も考え方も変わるものだ。でも、ヒステリーを起こしている時、人はそんなことはまったく考えない。自分が神の代弁者であるかのように「私のルールに従わないのは間違っている!」と強く思うのだ。

しかし人は神の代弁者ではない。
すべての状況も、すべての境遇も、計り知ることはできない。
モノゴトの重みや優先度についても、万人が納得する説明をすることはできない。

それなのに、「お前は間違っている」と言いたくなってしまうのは、「自分がわかってないことを自覚していないから」だ。わかってないことを、わかったことにしてはいけないんだ。それがすべてのヒステリー(無思慮、無批判による不満や怒り)の原因であり、すべての混乱の原因だ。

「より妥当な認識があるのではないか?」

それを見つけようとする態度が、ヒステリーや混乱のない自由な思考に導く。この態度なくして、ヒステリーや混乱から逃れる術はない。そしてそれが哲学の基本的態度なのだ。

哲学をやらなければこの態度は身につかない。ヒステリーでモノゴトは解決しない。

哲学をやらなくてもいいという意見はつまり、ヒステリーを起こす人間になりなさいということだ。そんな意見が妥当なはずがない。バカバカしい。

3. 哲学をやると気が狂う

実際にこういうことがあったんだろうけど、あったとすればそれはたぶん、「論理的におかしいことを正しいと誤解して、自分の中の論理を曲げてしまうことで理解ができない状態になる」ために起きるんじゃないかと思う。

哲学書に書かれていること。
あるいは、哲学者を含む「偉い人」が言ったこと。
そして、世間的に正しいとされていること。

これらはたいていの場合、整合しない。全部を正しいとして考えようとしても、辻褄が合わないのだ。合うわきゃない。誰もが自分なりの解釈を述べているに過ぎなくて、どの意見も「ある一方から見た意見」でしかないのだ。それをごちゃ混ぜにしたところで、美しく整合した世界の見方なんか得られるわけがないのだ。

それを無理に整合させようとして論理的によくわからない状態になってしまう。そうすると、「正しさが明瞭でない状態」になってしまって、世界を認識するためのモノサシを失ってしまう。そうなると理解できる人生を生きることは難しくなる。

また、そこまで行かなくても、世界を悲観したりあまりの不明瞭さに絶望したり、そういうことでも人はきっと死ぬんだろう。

間違っている

だけどね、そういう考えになってしまうのは、「自分が考えていることは正しい」という極端に偏った認識があるからだ。もしかしたら、正しいかも知れない。天才かも知れない。でも、そうじゃないかも知れない。

極端なことを言えば、どの意見もある種の説得力を持つだろう。とんでもない意見でさえ、信じる人は信じるんだしね。しかし逆のことを言えば、どの意見も「絶対的に正しい」などとは言えないのだ。

様々な立場、状況、考え方、捉え方、分類の仕方、そういうものが組み合わさって、人間は世界をなんとかして認識しようとしている。でも、世界ってそもそもそういうものじゃない。人間は認識しようとしてがんばるけど、どうやったって「世界の本当の姿」を見ることはできない。なんたって、目と耳と鼻と口と皮膚で捉えるしかできないんだから。もしかしたら電波とか受信できる人がいるかも知れないけど、それにしたってすべての人間の心を理解するとか、宇宙のすべてを瞬間的に把握することなんかできない。

圧倒的に、わからないことの方が多い。そして、どうにもできない。

そういう中でどうにか生きていくために世界を認識しようとしているのだから、そもそも「快適に生きられりゃなんでもいい」というのが世界認識の根底にあるのだ。なのに、やれ「これが正しい」とか、「これが理想的だ」とか、そういう「わかりやすい型・パターン・レッテル」を作って世界を簡単に見ようとするやり方に慣れすぎてしまっているんだ。

そのやり方が悪いのではない。それしかできないんだから、良いも悪いもない。でも、この認識の仕方には明らかな弱点があるのだ。重要なことは、このやり方は世界のほとんどを切り落として単純化した見方だから、「切り落としたことが見えなくなってしまうやり方」だってことだ。そりゃそうだ、切り落としてるんだから。当たり前の話。

これはアナログとデジタルの関係と同じだ。デジタル化すればわかりやすいし扱いやすい。なんと言っても計算しやすくなる。でも本物はアナログの方で、デジタルではどんなにがんばっても本物とイコールにはならない。

言葉もルールも思想も、どうやっても本物にも完璧にもならない。

大切なことは、そこで絶望することではなくて、本物でも完璧でもないことを理解して、モノサシをうまく使うということだ。モノサシが不十分だったら、新しいモノサシに更新すればいいんだ。単純にそれだけ。

それを軽やかに、楽しんで行うこと。

世界の見えていなかった側面を見つけていくこと。

それが哲学するということだ。

そのように哲学していれば、気が狂ったりなんかするもんか。

まとめ

まとまらない(笑)
なので、気が向いた時に補完しようと思う。

以上!