「哲学の専門家」ではありません。
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『愛するということ』について(2) 配慮する

さて、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』について、いよいよ書きたかった本題に入る。フロムのいう〈愛の能動的4つの性質〉、配慮・責任・尊敬・理解について個別にみていこう。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

この〈愛の能動的4つの性質〉は、原書では次のようになっている。

  • 配慮 care
  • 責任 responsibility
  • 尊敬 respect
  • 理解 knowledge

訳語はもちろん間違いだとは思わない。一般的にはこの訳語で問題はないように思う。しかし、言葉の意味は多様であって、解説なしでは誤解を防ぐことはできないように思う。


配慮する(care)

配慮、気くばり、思いやり。

私の印象だけど、これらの言葉はあまり深く理解されずに「なんかよいもの」というあやふやな概念として使われているように思う。配慮という言葉を使う限り、受け取る人によって具体的なイメージが異なってしまい、どうしても誤解されやすいだろう。ましてや、深く考えず形だけ配慮しようとすることは、フロムが言う配慮とはまったく異なるもののはずだ。

さて、これについてフロムは次のように書いている。

もしある女性が花を好きだといっても、彼女が花に水をやることを忘れるのを見てしまったら、私たちは花にたいする彼女の「愛」を信じることはできないだろう。愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。
p.49 (下線筆者)

愛する者の生命と成長を積極的に気にかける、フロムはこれを「積極的な配慮」と呼んでいる。

積極的な配慮。それを日本語ではなんと表現するか。私は慈悲が適切なように思う。

慈悲というのは、慈と悲が組み合わさったものだ。

慈とは慈しむこと。なにかの幸せを願い、助けること。与楽(よらく、楽を与える)のこと。
悲とは悲しむことではなく、憐れみのこと。悲しみと憐れみの両方が合わさったような概念のことだ。抜苦(ばっく、苦を抜く)のこと。

フロムのいう積極的な配慮は、まさしくこれではないだろうか。相手の幸せを願い、苦しみや悲しみを軽くしてあげたいという意志。つまり、相手の幸せがどういうものかを考えずにはいられず、相手の悲しみや苦しみの原因を取り除く方法を考えずにはいられない心のありようだ。そうであれば、単に気にしてあげるということではない。

この"積極的な配慮"に限っていえば、そのまま"慈悲"と意訳しても差し支えないように思う。

また、これは蛇足かも知れないが、"彼女が花に水をやることを忘れるのを見てしまったら"という例をあげて、彼女の愛を信じられないだろうと言っている。これは、愛は普段の思いが行動で表現されるものであって、言葉で表現されるものではないという意味も持っている。

もうひとつ、フロムは愛と労働は分かちがたいとも言っている。

愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。愛と労働は分かちがたいものである。人は、何かのために働いたらその何かを愛し、また、愛するもののために働くのである。
p.50

これも誤解を生む表現だ。

この労働(labor)は義務とか苦役とかの意味ではなく、〈苦心すること〉の意味だ。しかし日本語で労働という言葉にしてしまうと、なんらかの強制力や楽しくないイメージを伴ってしまいがちだ。しかしそうではない。

だからこの部分を私が意訳すると次のようになる。

愛の本質は、心を砕くことであり、何かを育てることだ。このふたつを分けて考えることはできない。人は何かのために苦心することで愛し、愛するがゆえに苦心するのだ。

フロムの言う〈care〉に"配慮する"という訳語を当てるのは、一般的な翻訳としては間違ってはいないとは思うが、その意味を単なる思いやりと解釈するのは浅すぎるだろう。

また、その意味からすれば"慈悲"と言い換えても差し支えないとも思うものの、"慈悲"という単語は日常的には使われておらず、意味するところが伝わりにくい。

この部分を読んで私が思うのは、愛の本質のひとつは、相手の幸せの希求だということだ。相手の幸せな状態(ハピネス)や良好な状態(ウェルネス)を願い、現在そうであるか気にかけること。幸せ多く、苦を少なく、育む。

以上のことから私は、この場合の日常的な日本語訳として適切なのは〈責任を持って手入れする〉ではないかと思う。なんとも長い意訳になってしまうが、次の〈責任〉との関係が暗示されてそれはそれで良いのではないかとも思う。

この節の要点:

  • 愛の本質のひとつは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかける慈悲心
  • 愛の本質のひとつは、〈責任を持って手入れする〉こと

『愛するということ』について(1)

エーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本がある。

愛に関することで必要なことはこの本で言い尽くされてしまっている、といっても言い過ぎではないと思えるくらいに完成度が高い本だ。特に「愛は技術だ」と喝破しているところはとても素晴らしい。

もし、愛を技術ではなく、本能だとか、まともな人間なら誰でもできるものだとしたなら、愛する方法がよくわからない人は自分を欠陥人間だと責めるしかなくなってしまう。

愛についての理解を深め、自分を磨くことで身につけられる技術であるからこそ、救われる道が示せる。また、愛について間違った理解をし、自分を磨くこともしないのであれば、正しい形で実践することはできないことになり、気持ちはあってもうまくいかないことの理由が説明できることになる。

理由が説明できること。これもまた救われる道だ。フロムは愛を説明できるものにすることによって、うまく愛せずに苦しむ人に救いの道を示したと言えるだろう。

それほど完成度が高く素晴らしい本であっても、細部を考え直してみるとまだ掘り下げらえるところがあると、最近になって思えるようになってきた。どんなに完璧に思えても別の角度から光を当てることはできるし、見えていなかったことに気づくこともあるってことだ。

この本でフロムは、愛を「何よりも与えること」といい、その能動的性質として、

  • 配慮(care)
  • 責任(responsibility)
  • 尊敬(respect)
  • 理解(knowledge)

の4つをあげている。しかし、ここの説明は「誤解が可能」な表現になっているように思う。

言葉の意味の受け取り方には個人差がある。言葉に引きずられてしまうといったらいいのかわからないが、自分なりの意味で解釈してしまうと、フロムが言いたいこととは違う意味に捉えてしまうことは十分にありえそうだ。

そこで、ひとつひとつを〈できるだけ誤解しにくい形〉で解説してみようと思う。

ただし、もちろんわんこ先生流だ。それ以外は私にはできないのだから仕方がない。私は学者ではないし、専門の方々から見れば稚拙に映るだろうし、異論・反論は当然出るだろう。だから「これがフロムの言っていることだ!」という意味で書くわけではない。フロムの真意がどうであれ、この本を読んで私が書きたくなったことを書くだけだから、ブログタイトルで宣言しているように「ざれごと」として読んでいただきたい。

それと、参照する本は紀伊國屋書店刊の『愛するということ新訳版(鈴木晶訳)』だ。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版



さて、しかし、4つの能動的性質について話す前に、前提となるとても重要な部分を抜き出しておこう。それは次のふたつだ。

  • 「愛するとは与えること」が指し示す「与えるもの」
  • 愛することを実践できる条件

では、順に見ていこう。


「愛するとは与えること」が指し示す「与えるもの」

しかし、与えるという行為のもっとも重要な部分は、物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある。では、ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのだろうか。自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。
p.45~46 (下線筆者)

まずこの引用部分全体で言わんとしていることは以下のことだ。

  • 物質を与えることを指してはいない
  • 「ひときわ人間的な領域」を指している

その「ひときわ人間的な領域」は、つまり上記の引用の下線部分だ。自分自身を与える。自分の生命を与える。フロムも誤解を防ぐために「生命を犠牲にするという意味ではない」としているが、そのあとに続く文章を読んでも人によってはわかりにくいのではないかと思う。

これを私の言葉に変換すると「自分の生き方を示す」ということになる。

自我を持っている人であれば、自覚していようがいまいが自分なりの生き方を持っている。アドラー心理学風に表現すればライフスタイルだ。そのライフスタイルには自分の価値観・世界観が表れている。私は特別にアドラーを信奉しているわけではないけど、生き方と書くよりもライフスタイルと書いた方が変な抵抗感なく読めるように思うので、ここではライフスタイルと書くことにする。

さて、そのライフスタイルに表れる価値観と世界観だが、価値観とは、善悪とか好き嫌いとか勝ち負けとかの〈自分の判断基準〉になるものであり、世界観とは、格差社会とか個人主義とか競争のない社会とか世界の〈自分の捉え方〉のことだ。

その価値観・世界観で様々なモノゴトを見て、判断し、何かを選び取って生きている。つまり、ライフスタイルにはその人の「いちばん大切なもの」が、そもそも表れているのだ。当然ながら、価値観も世界観も、着替えるように簡単に変えられるものではなく、まさにその人の生命と言い換えてもいい。*1

ここで重大な誤解が生じる可能性がある。「愛は与えることであり、それは物質ではない」ということだけを見て、善人ぶった言動や振る舞いを愛だと勘違いしてしまう可能性だ。簡単にいえば〈形だけ真似た愛っぽい振る舞い〉のことだ。しかし、当然ながらフロムが示しているのはそれではない。

愛として与えることができるものは「自分のライフスタイルであり、それ以外を与えることは不可能」ということであり、しかもそれは「容易に変えられない」という点こそ、驚愕して受け取るべきものだ。

たとえ善人ぶろうと美辞麗句で飾り立てようと、自分のライフスタイル以外を与えることはできない。

では仮に、善人ぶるために他者に優しくするとしたらどうなるのか。その場合、「自身を偽って善人ぶる」というライフスタイルを示すということであり、その人は〈自分を偽り善人ぶることを指して愛と呼ぶという生き方〉を示すことになる。

自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

自分が持っていないものを示す(与える)ことはできない。

もしも自分の生き方が「善人ぶること」や「我慢すること」であったとしたら、それしか示せない。それは「善人の振る舞いをしろ」とか「我慢しろ」という押し付けや支配を相手に示すということだ。愛だと思って与えたものが、愛とは真逆のものかも知れないのだ。

この節の要点:

  • 与えられるものは自分のライフスタイルだけ。
  • 〈持っていない良さげなもの〉を与えることはできない。


愛することを実践できる条件

あらためて強調するまでもないが、与えるという意味で人を愛することができるかどうかは、その人の性格がどの程度発達しているかということによる。愛するためには、性格が生産的な段階に達していなければならない。この段階に達した人は、依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとか何でも貯めこもうという欲求をすでに克服し、自分のなかにある人間的な力を信じ、目標達成のためには自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。これらの性質が欠けていると、自分自身を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない。
p.47~48 (下線筆者)

フロムは、(単に与えることではなく)「与えるという意味で人を愛する」ことができるかどうかは、その人の性格の発達段階によってしまうと言っている。このあたりの記述は「愛を与えるには」という文脈で書かれていて、フロムは愛を与えたいという読み手の純粋さを疑っていないように思える。この引用部分の最後で「これらの性質が欠けていると、自分自身を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない」と書かれていて、その怖さや勇気のなさの意味について読み手にとって自明だと思っているかのようだ。

しかし私は、ここに誤解の可能性を感じている。怖さであり勇気のなさと言えばその通りなのだが、その意味の受け取り方は人によって大きく異なる可能性がある。

前節で「自分を偽って善人ぶる」ことを例に出したが、これは自分の本当のライフスタイルを示すことが怖く、そのままのライフスタイルを出す勇気がないことの現れと表現することもできる。しかしそれだけではない。この例で想定する人物は、自分のライフスタイルについて以下のように思っていると推測できる。

  • ライフスタイルも世界も、変えられないものと信じている
  • 自分は理想的でないと感じている
  • 本当の自分を隠したままで正当化されたいと思っている

たしかに「自分自身を与えるのが怖く」と言えばそうだ。しかしそれだけではなく、ライフスタイルに疑問を抱いたり、どうしてそうなるのかを考えたり、理想に近づくための諸々について能動的でない。引用部分に「目標達成のためには自分の力に頼ろうという勇気を獲得している」とあるが、その勇気がない。

ここはもう少し踏み込んだ方がよいようにも思うが、本旨と離れて散漫になってしまいそうだし、筆ものらない。なので本旨に集中するため、フロムがここで言わんとしていることを私なりに整理すると、以下のような構成になる。

  1. 与えるという意味で愛するのは、自分自身を与えるということ
  2. 自分自身を与えるのが怖かろうと、それ以外を与えることはできない
  3. よいものを与えるには、自分がよいものを持たなければならない
  4. 愛するためには自分が変わる以外に方法はない
  5. よいものとは性格に起因する人間性のこと
  6. 依存心・ナルシシズム・損得勘定などを克服している必要がある
  7. 自分を信じ、自分の力に頼ろうという勇気を獲得している必要がある
  8. これを持たない人は、自分の未熟さを晒すのが怖い
  9. これを持たない人は、自分を変える勇気がない

さらに簡単にまとめてしまうと、愛するとは、自分のライフスタイルを適切なものに変えることであり、それは愛の技術を身につけるということだ。

逆を言えば、愛の技術を身につけるためにはライフスタイルを見直すことや、自身が感じている怖さと向き合わなければならないということだ。見直さないし向き合わないのであれば、愛の技術を身につけることはできず、結果として(正しく)愛することはできないということだ。

自分の価値観の押し付けを、愛だと言い張ることはもちろんできるが。

そして見落としがちなことがもうひとつある。それは「自分は愛せるからライフスタイルを変える必要がない」と考える人は、愛の技術を身につけていないということだ。

この節の要点:

  • 自分のライフスタイルを変える勇気を持つことでしか、愛の技術は身につかない
  • 愛するとは、自分のライフスタイルを適切なものに変えること

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

*1:絶対に変えられないものではなく、ライフスタイルを変えるという強い決意と実際の行動があれば、それこそ「思うがままに」変えられるものでもある。

会う、逢う、遭う

人や出来事と対面する意味での「あう」にはいくつかの漢字がある 。それぞれ以下のような違いがあるように思う。

 

…集まる。会う意思が有る。

…運命的な要素。逢う意思は問わない。

…偶然的な要素。遭う意思は無い。

 

逢うは、逢瀬のように意思がある場合もあれば、巡り逢いのように意思がない場合もある。

また、""が付く漢字は「道を行く」の意味があるので、運命の 流れの中での【出逢い/出遭い】という意味合いもあるように思う 。しかし"会"には運命や偶然の要素がない。

言葉は時代と共に変化していくものだしあまり厳密に意味を縛るの もよくないとは思うけど、そもそも籠められた意味というのもあって、似たような意味でも違いがあったりする。その違いに気づいたり、気づいた違いを無視しないで使い分けたりしないと、意味は豊かにならない。

単に言葉の意味が豊かにならないだけではなく、言葉によって作られる人生も豊かにならない。言葉の意味に敏感になることは人生を豊かにし、幸せに気づきやすくなる。

ただし、言葉の意味に敏感になることは、言葉の原義に厳しくなることとは違う。自分が使う時には意識して使い分けるけれど、他人が使う時には寛容になった方がよい。言葉の意味を豊かにしたいの は「自分の勝手」だからだ。特に日常会話では、言いたいことが通じれば細かいことはなんだっていいんだから。