「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

上下関係は対等ではない?

〈上下の関係〉ならば〈対等に話すことはできない〉

さて、この命題は正しいだろうか?

■仮定:真である
対等の概念は上下の関係性を否定している。対等とは上下関係の反意語であるから、上下関係が確定している中で対等に話すことは不可能だ。よってこの命題は真である。

■仮定:偽である
上下関係とは力関係だけを指すのではなく、形式的あるいは文脈的な立ち位置を表している場合もある。つまり〈力の上下関係〉と〈立ち位置の上下関係〉に分けることができる。

たとえば親子関係は典型的な上下関係ではあるが、親は必ず強く子が必ず弱いとは言えない。親が子の世話になることもある。つまり、力や立ち位置が上の者がそれを行使しない場合、あるいは行使できない場合、対等に話せることは十分にあり得る。よってこの命題は偽である。

■例:匿名チャット
お互いの素性がわからない匿名チャットで対話する場合を考えてみる。

開始時点では他に情報がなく、与えられた機能は文字による発言のみのため、対等と言える。ところがお互いの素性が情報として提供された場合、上下関係が生まれる場合がある。たとえば年齢差や権力が示された場合だ。また、情報力や知力の差が明確になるほど、発言力の強弱が生まれる場合がある。たとえば論理的に否定されて言い返すことができない場合だ。

しかしそのような場合でも、上の立場の者が〈その力を行使しない〉ように努めることで、上下関係の発生を抑えることができる。

〈その力を行使しない〉具体的な方法は、人間としての優劣を持ち込まない、あるいは優劣が持ち込まれた場合に〈必ず相対化する〉ということだ。

これは〈対等を妨げる権力の放棄〉と言い換えてもよい。

■おわりに
ところで、上下関係と対比して語られている対等とは、一体「なんの」対等なのだろうか。特に言及されていない場合の対等とは、「お互いの偉さ(優劣)」を暗に想定しているように私には思える。でも、必ずしもそうだとは言えない。

対等という言葉は、なにかについて同レベルであることを意味しているはずだ。そうだとしたら、対等であるか否かを論じるときには、なにについての話かを明確にする必要がある。どんな場合の話かも明確であったらなおよい。そうしないと、信念と信念の「空疎な応酬」にしかならないように思う。

向き合いはじめの一歩

ある日、ある場所での哲学対話。

宙空に浮かべられた問いを、みんながぼんやりと眺める。

どうしてそれが問われたのか、なにを問うているのかを考えることなく、まるでアンケートの設問に答えるように、次々に「自分はこう思う」という意見が述べられる。

論理も根拠も必然性も示されないままに、〈それ〉は唐突に話題を変え、迷走を始める。

焦点を絞らずに述べられる意見。

関連があるように見せかけた演説。

問いが求める答えを探りもしないままに語られるそれらの言葉たちは、受け取り手もないままに宙空でかき消え、誰にも、どこにも、届かない。



なぜ、〈それ〉を対話と呼べるのか。
自分の番になるまで黙って聞き、前の人の話に関係があるように装えば、それは俗な会話とは違って高尚な『ザ・対話』になるとでも言うのだろうか。



なぜ、〈それ〉を哲学と呼べるのか。
問いが指し示すものを見ずとも、示された問いを眺めて弄り回していれば、なにか不思議な力で哲学に変わるとでも言うのだろうか。



私は〈相手を喜ばせるためにする贈り物〉は本質的に攻撃と同じだと考えている。

攻撃というものは当たらなければ意味がないし、当たったとしても対象に影響がなければ意味がない。当てるための工夫も必要だし、影響を与えるための工夫も必要だ。どこでも当たればいいというものでもない。

そのためには相手を観察しなければならないし、どうであれば効果があるのか考えなければならない。戦車に石を投げて硬い装甲に当たったところで、戦車にはなんの被害もない。そんな攻撃に意味はないのだ。

どんなに豪華な贈り物であろうとも、相手のハートを撃ち抜くことができないのならその目的を果たすことはできない。無論、贈り物をしたという既成事実だけが欲しいのであれば目的を果たすことはできる。しかしそれは、〈相手を喜ばせるためにする贈り物〉ではなく、自分を正当化するための根拠づくりだ。

哲学も、対話も、そして愛も、この点では贈り物と一致している。この点とはつまり、核心を捉えない限り本来的に無意味という点だ。


問いに対してであれば、その問いが指し示したかったものはなにか、問いが満足する答えとはなにかと、問いが求めるものを看破せずに「問いに向き合う」ことはできない。


人に対してであれば、その人が伝えたかったことはなにか、その人が満足できる受け取り方とはなにかと、人が求めるものを看破せずに「人に向き合う」ことはできない。


なにか向き合おうとするなら、「寸分の狂いもなく捉えよう」「研ぎ澄まされた一撃で核心を突こう」としなければならないはずだ。それは、思いつくことを漫然と語り合うだけでは決して為し得ない。

思っていても簡単にはできないかも知れない。

けれど、やってみようとしなければ一歩目すら歩み出せない。

対話は信憑に変化をもたらす

デキゴトは常に「ある視点からの事実の側面のひとつ」に過ぎない。

誰であろうと、全視点(神の視点)で捉えることはできない。だから、同時にひとつの視点しか持てない人間には「事実をそのまま見る」ことはそもそもできない。

そしてその「ある視点」は物語的な解釈の始点になる。デキゴトとは、ある視点から見える「縁起」を構成した物語だ。人間が、デキゴトを物語的に捉えようとするのは、物語的な解釈によって意味を創造できるからであり、そうでなければ意味を創造できないからだ。そしてなぜか、創造した物語を事実のように誤認していく。

物語は、それを信じたい人の中に信憑を生み出す。内的な直感や、外的な論理の裏打ちによって信憑を高めようとはするが、〈信憑の度合い〉の本質は「その人の持つ信じたさ」にある。いかに裏打ちしようとも、「信じたさ」が揺らがない限り信憑は変化しない。

この信憑を変化させるものもまた物語だ。

ある視点で構成された物語に、別の視点を組み込むことによって、物語のもたらす意味が変化する。そこに「その人の持つ信じたさ」を揺り動かす意味が備わっていれば、物語自体の意味は変化し、それによって「信じたさ」にも変化が現れる。

対話はこの信憑に変化をもたらす。