「哲学の専門家」ではありません。
  天使のような純真さで疑問を投げかける犬畜生です。

「私」を考える

私とは、自分と外界を分ける「境界線の内側」を指す言葉だが、自分と外界とは何によって分けられているのだろうか。

皮膚によって?
そうだとすれば体内に埋め込まれたペースメーカーは、私の一部と認識されるのか。

有機的な結合によって?
そうだとすれば承諾なしで他人の組織や器官を移植されたら、すぐさま私の一部と認められるのか。

自覚によって?
これが自分なのだと認めたものの総体を私とし、それ以外を外部と感じる。たとえ正真正銘、自分の肉体であっても「違う」と感じれば自分の一部だとは感じられない。精神的にも自分と異なる人格が同居していると感じられれば、それを含めて自分だと捉えがたい。だから、自覚が境界線だと考えるのが一番納得感が高いように思える。

しかし、違う。
ここで終わりではない。まだ先がある。

この自覚は無意識的な自覚か、それとも意識的な自覚か。自覚はまったく自由にならないものか。

言い方を変えよう。

「自覚とは、自分の意志と無関係な事実によるものか」

私の答えは、無関係ではない、だ。だが、まだ考えなければその先の答えは出ない。

『愛するということ』について(3) 責任を持つ

エーリッヒ・フロムの『愛するということ』の中にある〈愛の能動的4つの性質〉について、次は責任をみていこう。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

くどいようだけど、〈愛の能動的4つの性質〉は原書で次のようになっている。

  • 配慮 care
  • 責任 responsibility
  • 尊敬 respect
  • 理解 knowledge ※新訳版では「知」と訳されている

そして、ひとつ前の記事の最後に書いたけど、配慮と責任には関係がある。それはどんな関係だろうか。


責任を持つ(responsibility)

日本人が持っている〈責任という言葉のイメージ〉を考えてみるとき、「よーし、責任持っちゃうぞ!」のような軽い使い方をイメージする人は多くないだろう。多くの場合、堅苦しく、やたらと重々しく、押し付けられるもののようなイメージとか、義務感や使命感のようなものをイメージしやすいように思う。また、切腹のような「自らを傷つけたり、自ら損をすること」というイメージを持っている人もいるように思う。

しかし、フロムの言う責任は、もちろんそういう意味ではない。フロムは次のように書いている。

今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押しつけられるものと見なされている。しかしほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為である。責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、何かを求めてきたときの、私の対応である。「責任がある」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。
p.50(下線筆者)

まず、義務や押しつけではなく、完全に自発的な行為であると言っている。この点は日本に限らず、外国でも同じように誤解されがちということだろう。

〈完全に自発的〉ということは、社会や他者から強制されるようなものではないということだ。別の言い方をすれば、〈自分の勝手な意志でやること〉であるし、裏を返せば、やりたくなければやらない、持ちたくなければ持たないものということだ。

ここで誤解がありそうだが、フロムは義務を否定してはいない。義務は義務として考えるとして、それとは別に、愛には〈完全に自発的〉な責任というものが必要だよ、ということだ。義務を果たすことが愛の技術ではなく、責任を持つことが愛の技術だということだ。

次に、具体的にその責任〈responsibility〉とはどういうものか。英語はまったく得意ではないけど、語源を調べてみると、こんなことがわかる。

まず、responsibility とは、re + spons + ability に分割できる。

re は〈返す〉、spons は〈約束、保証〉、ability は〈能力〉を意味していて、レスポンス(response)は約束したこと(信義)を返すということから、返答や反応という意味になる。生返事ではなく、信義を守るための返答と捉えたらイメージしやすいだろう。

responsibility は、 response + ablity だから、返答する能力を意味していることになる。もちろん生返事ではなく、求められていることに応える能力という意味になる。能力があるというのは、実行できるという意味で考えていい。

これは能力がない場合を考えるとよりイメージしやすい。たとえば、目があっても視力(見る能力)がなければ見ることはできない。

つまりフロムの言う責任とは、義務や押しつけではなく、求めに応えようという自発的な意志と能力を指している。これは〈実行できる能力を持つ意志〉と言い換えられる。引用した部分は responsibility の意味するところそのままで、実行に必要な体力や知識や経済力を備えているということだ。

愛は気持ちのことだと勘違いされがちなので、具体的にその能力がない例をあげておこう。

  • これから備えようと思う(今、備えはない)
  • やる気はある(実行力はない)
  • 愛情はある(愛する能力はない)

以上のようなものは、気持ちだけであってそれを実現する能力はない。つまり、なんとしても実現するのだという覚悟がない。

中国古典に、轍鮒の急(てっぷのきゅう)という故事がある。

荘子が食に困り人に援助を求めると、近く年貢が入るからそうすれば大金を貸せると言われた。それに対して、自分がここへ来る途中、車輪の跡のくぼみにたまったわずかな水の中で苦しんでいる鮒に「そのうち長江の水で助けてやろう」と言ったら、「水が欲しいのは今だ」と鮒が怒ったという話を聞かせて憤慨したという。

轍鮒之急(てっぷのきゅう)の意味・使い方 - 四字熟語一覧 - goo辞書

今すぐ助けが必要なときに、気持ちはあるけど準備が整ってないというのは、つまりは助けられないということだ。今でなければならないときに、「気持ちはある」などただの言い訳だ。

たとえば乳児の世話の仕方について勉強していなければ、十分に世話することはできない。よかれと思って独りよがりの考えで接すれば、とんでもないことをしてしまう恐れがある。

フロムの言う責任は、つまり〈今すぐ力になれる能力〉のことを指している。これは配慮とも関係していて、配慮を具体的に実行できる能力のことだ。

「責任がある」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。

これを私なりに意訳すると次のようになる。

「責任がある」ということは、頼りがいのある人間だ、という意味である。

〈care〉の日常的な日本語訳を〈責任を持って手入れする〉と考えたように、〈responsibility〉の日常的な日本語訳は〈頼りがい〉ではないかと思う。

責任のよりよい言い換えを考えてけっこうな時間がかかってしまったが、〈頼りがい〉という表現を見つけられたことに満足している。

この節の要点:

  • 愛の本質のひとつは、〈相手にとって頼りがいのある人間でいる〉こと

『愛するということ』について(2) 配慮する

さて、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』について、いよいよ書きたかった本題に入る。フロムのいう〈愛の能動的4つの性質〉、配慮・責任・尊敬・理解について個別にみていこう。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

この〈愛の能動的4つの性質〉は、原書では次のようになっている。

  • 配慮 care
  • 責任 responsibility
  • 尊敬 respect
  • 理解 knowledge

訳語はもちろん間違いだとは思わない。一般的にはこの訳語で問題はないように思う。しかし、言葉の意味は多様であって、解説なしでは誤解を防ぐことはできないように思う。


配慮する(care)

配慮、気くばり、思いやり。

私の印象だけど、これらの言葉はあまり深く理解されずに「なんかよいもの」というあやふやな概念として使われているように思う。配慮という言葉を使う限り、受け取る人によって具体的なイメージが異なってしまい、どうしても誤解されやすいだろう。ましてや、深く考えず形だけ配慮しようとすることは、フロムが言う配慮とはまったく異なるもののはずだ。

さて、これについてフロムは次のように書いている。

もしある女性が花を好きだといっても、彼女が花に水をやることを忘れるのを見てしまったら、私たちは花にたいする彼女の「愛」を信じることはできないだろう。愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。
p.49 (下線筆者)

愛する者の生命と成長を積極的に気にかける、フロムはこれを「積極的な配慮」と呼んでいる。

積極的な配慮。それを日本語ではなんと表現するか。私は慈悲が適切なように思う。

慈悲というのは、慈と悲が組み合わさったものだ。

慈とは慈しむこと。なにかの幸せを願い、助けること。与楽(よらく、楽を与える)のこと。
悲とは悲しむことではなく、憐れみのこと。悲しみと憐れみの両方が合わさったような概念のことだ。抜苦(ばっく、苦を抜く)のこと。

フロムのいう積極的な配慮は、まさしくこれではないだろうか。相手の幸せを願い、苦しみや悲しみを軽くしてあげたいという意志。つまり、相手の幸せがどういうものかを考えずにはいられず、相手の悲しみや苦しみの原因を取り除く方法を考えずにはいられない心のありようだ。そうであれば、単に気にしてあげるということではない。

この"積極的な配慮"に限っていえば、そのまま"慈悲"と意訳しても差し支えないように思う。

また、これは蛇足かも知れないが、"彼女が花に水をやることを忘れるのを見てしまったら"という例をあげて、彼女の愛を信じられないだろうと言っている。これは、愛は普段の思いが行動で表現されるものであって、言葉で表現されるものではないという意味も持っている。

もうひとつ、フロムは愛と労働は分かちがたいとも言っている。

愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。愛と労働は分かちがたいものである。人は、何かのために働いたらその何かを愛し、また、愛するもののために働くのである。
p.50

これも誤解を生む表現だ。

この労働(labor)は義務とか苦役とかの意味ではなく、〈苦心すること〉の意味だ。しかし日本語で労働という言葉にしてしまうと、なんらかの強制力や楽しくないイメージを伴ってしまいがちだ。しかしそうではない。

だからこの部分を私が意訳すると次のようになる。

愛の本質は、心を砕くことであり、何かを育てることだ。このふたつを分けて考えることはできない。人は何かのために苦心することで愛し、愛するがゆえに苦心するのだ。

フロムの言う〈care〉に"配慮する"という訳語を当てるのは、一般的な翻訳としては間違ってはいないとは思うが、その意味を単なる思いやりと解釈するのは浅すぎるだろう。

また、その意味からすれば"慈悲"と言い換えても差し支えないとも思うものの、"慈悲"という単語は日常的には使われておらず、意味するところが伝わりにくい。

この部分を読んで私が思うのは、愛の本質のひとつは、相手の幸せの希求だということだ。相手の幸せな状態(ハピネス)や良好な状態(ウェルネス)を願い、現在そうであるか気にかけること。幸せ多く、苦を少なく、育む。

以上のことから私は、この場合の日常的な日本語訳として適切なのは〈責任を持って手入れする〉ではないかと思う。なんとも長い意訳になってしまうが、次の〈責任〉との関係が暗示されてそれはそれで良いのではないかとも思う。

この節の要点:

  • 愛の本質のひとつは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかける慈悲心
  • 愛の本質のひとつは、〈責任を持って手入れする〉こと